自鳴琴

自鳴琴

Je dédie ce roman à une fille que j'adore.

 『クレーヴの奥方』と『ドルジェル伯の舞踏会』とを下敷きにして……

 

 心理がロマネスクであるところの小説。
 想像力の唯一の努力がそこに集中される。即ち、外的な事件にではなく感情の分析に集中する。
 もっとも純潔な小説と同じくらいに猥らで貞淑な恋愛小説。粋(élégance)には一見下手な着物の着方をすることが必要であるように、文章の拙い形式。(ラディゲのメモより)

 

 【春】 

 

 呉田遼平は早まる胸の鼓動を落ち着かせようと強いて普段よりもゆっくりと歩き、更には故意に遠回りの道を選びさえして待ち合わせ場所へと向かった。その喫茶店の看板が見えたから、彼は腕時計をちらと眺めて時刻を確認したが、まだ約束の時間迄は十五分程あった。早く着き過ぎたな、と苦笑しながら店の扉を開くと、その扉の上部に設えられたベルが鳴り、人の良さそうな笑みを浮かべた店員が彼を迎えた。彼がその店員を見るのは初めてだった、もう随分とこの店へ通っているのに。
 僕らは平日にしかこの喫茶店へ寄ったことがなく、従ってこの店の休日の顔を見るのは初めてなのだ、と彼は考えた。その新しい発見が彼を喜ばせて、最早全てが幸福の光の下にあるようにさえ思えるくらいだった。彼はぼんやりと店内に流れる音楽に耳を傾け、数分後には約束された幸福がこの喫茶店のベルを鳴らしてやって来るのだ、と考えていつもの席に腰を下ろすとその眼を閉じた。
 呉田遼平には意中の乙女があった。彼とその少女とは、その事端に於いては家庭教師とその生徒という関係だったが、今年からは同じ大学の先輩と後輩と、という関係になった。彼は自分とその少女との関係を恋人同士へまで亢めたいと嘗てから考えていて、この日は初めて二人が示し合わせて休日を共に過ごす記念すべき日なのだった。
 扉のベルが小気味好い音を響かせたのを聴いて呉田遼平は顔を上げた。店外の明るい光を後ろから受けた立花岬の姿は彼をして、まるで天使のようだ、とさえ思わせた。彼女は直ぐに彼を認めて近付き、その向かいの椅子を引いて慎ましい動作で腰掛けた。彼は店員を呼び、いつものようにコーヒーとミルクティーとを注文すると、自らの眼前にいる美しい少女の澄んだ瞳を偸むように見た。そうして、
 ――晴れてよかった、と言った。
 立花岬はそれに和して静かに頷いた。
 ……それから暫し後、店員がやって来てブラックコーヒー、ティーポット、ミルクポット、カップをテーブルへ丁寧に置くと二人は静かに礼をした。立花岬は小さなミルクポットをその細い指で摘むとそれを傾けてカップへ注ぎ、次に紅茶を注いだ。そうしてテーブルの隅から砂糖瓶を取って砂糖を三匙分入れ、ティースプーンで静かに掻き混ぜ始めた。呉田遼平はその様子を眺めながら、彼女がその拘りについて、「ミルクが先か、紅茶が先か、の問題はイギリスで百三十年も争われた末に漸く王立科学協会によって調停されたんですよ、」と熱心に語り、そうすることの出来る喫茶店へしか入りたくないと少女らしく言い張った時のことをしみじみと思い出すのだった。
 それは僕らが初めて一緒にお茶をした時のことだったな……、と彼は改めて意識した。僕らが参考書を選ぶため本屋へ行った時のことだった。その頃彼女はまだ高校生で、我儘が、大人びようとする気取りとのそのちぐはぐさによってとてもよく似合うような時期だった。僕は彼女の可愛らしい願いの為に幾つかの喫茶店を回ることになったのだが、苦労さえも愛しく思えた。……それが今や本物の所作となって実によく調和している。彼女のカップを取る手付き――その美しい三本の指で取っ手を摘む仕草の嫌味のない上品さ……。
 ――コーヒーが冷めてしまいますよ? と立花岬が言った。
 彼はその言葉を受けてお座なりにコーヒーに口を付けた。その苦味が現実感覚を取り戻させたが、しかし彼には尚も自分が夢見心地の中にいることが意識された。
 ――相変わらず君は、綺麗な手付きでミルクティーを飲むね、と言った。
 それは彼が毎回のように口にする言葉だった。最初のうちは、彼女の気取りを冷やかすような調子を帯びていたものだったが、今やそれは心の底からの真摯な言葉となっていた。彼女はそれを聞いて微笑んだ。
 二人はカップを空にするまで取り留めのない雑談を交わした後会計を済ますと、この日は少し遠出して湖畔の美術館を訪ねることにしていたから駅を目指した。改札を通り抜けて、人でごった返すプラットフォームに立って次の電車を待ったが、数分後に滑り込んで来た電車は急行故か人でいっぱいだったからやり過ごすことにし、次の各駅に止まる電車に乗り込んだ。そのお陰で二人は無人ボックスシートを向い合って占めることが出来た。彼は車窓から差し込む晩春の光に照らされながら、窓外へ視線をやっている彼女の秀でた横顔を眺め、自分が幸福であることを靭く意識した。幸せな時間はあっという間に過ぎるものだから、目的の駅に着くのが彼には本当に早く感じられた。改札を出ると二人は真っ直ぐに美術館を目指して歩き始めた。
 呉田遼平はその道すがら、彼女の手を取りたいが、しかしどうしたら良いだろうか? と一人悩んでいた。彼女のその白い手を眺めながら、急に手を取っては無遠慮だろうか、と考えては、じゃあ許可を取るべきだろう、という結論に至り、声を掛けるタイミングを計りながら、ちらちらと彼女の眼を見たりした。しかし結局彼は臆病だった。
 その彼の煮え切らない態度から立花岬は、一体この人はどうしたのだろう? と考えた。私の方へ何回も視線を彷徨わせて、でも何も仰ってくださらない。折角普段よりもおめかししているのだから、少しくらい服装を褒めてくださったっていいのに、ずっと陰気な顔をしていらっしゃる。……もしかしたら私一人が浮かれていたのじゃないかしら? それってとっても滑稽なことだわ。
 彼女は彼からのデートの誘いを受けた時はあまりその申し出を魅力的なものとは思えなかったのだが、しかし義理のようなものからそれを承諾した。で、何となく女友達にそのことを話してみるとその友人は俄に活気付いて彼女を引っ張り、洋服屋の並ぶ区画へ向かった。そうして彼女を着せ替え人形のように扱った。立花岬はまるで自分がマネキンにでもなったように感じたが、彼女もまた女性なのだからその友人の行為に尠くない快感を覚え、気が付けばデートを楽しみなものとして考えるようになった。それなのに彼女の自尊心を擽るような言葉を呉田遼平は一言足りとも口にしなかった。それが彼女の傲慢な、少女らしいプライドを傷付けた。
 彼らは美術館へ到着し、呉田遼平が入場券を買ってそれを立花岬に渡して二人は展示を見始めた。その環境が呉田遼平に良い効果を与えた。呉田遼平は最早どんな絵画を見ても満足することが出来なかった、自らの隣に何よりも美しい少女がいたから。彼は他へ視線をやる暇があるのなら彼女をひたすらに眺めていたいくらいで、二人の視線は屡々交わるようになった。遂に彼は堪らなくなって、
 ――君は、……とても綺麗だね、と囁いた。
 その一言で呆気無くそれまでの蟠りは解けた。呉田遼平は既に美術品への興味を殆ど失っていたから、さり気なくその美術館を出てその傍にある湖の周りを散策することを提案し、立花岬がそれに賛同したから彼らはそこを後にした。
 二人は湖へ向かう遊歩道を歩き始めた。白樺を背景に躑躅の植え込みが続き、ところどころにそれを区切って花壇が作られており、そこには季節の花々が可愛らしく咲いていて彼らの眼を楽しませた。立花岬は不意と屈み込んでは花毎に立てられた説明板の文字を熱心に追い始めるのだった。
 自制心、節制、……赤色の花だったら恋の喜び、白だったら初恋。呉田さんは多分私に恋をしている。……でも、私には恋とは何なのか、どういうものなのかがまだ分っていない。先程綺麗だと言ってくださったのは嬉しかったし、この人の傍にいるとなんだか安心することの出来るような気がする。……この安心が恋なのかしら?
 次に立花岬は白いアネモネの群がって咲いているのを見付けて屈み込んだ。彼女は赤や紫などの毒々しい色のアネモネがあまり好きではなく、白色で、尚且つその中心部の黄色いものに限っては幾らか好ましく思っていたが、矢張り白いものを見ても不吉そうな色の花弁を想起してしまうのだった。
 アネモネ、恋の苦しみ……、と彼女は考えた。恋には美しい面だけじゃなく、そういうネガティヴなものもあるはずだわ。不安、嫉妬、懊悩……、そういうものが恋を亢めるのでしょうか。いいえ、恋の中にあってはそれらさえも美しいはず。でも……、
 呉田遼平には、立花岬の可憐な花弁を一心に眺める姿はまるで自然の美への祈りのように見えた。彼女はその美を表出し始めた花々の中にあって真にそれらと調和していたから、彼には彼女こそがその自然の完成者のようにすら思えた。恋する男にはおよそ全てのものがその意中の女性を飾るためだけの存在に思えてくるものだ。彼は最早現実を正しく見得ない、彼はその経験によって自らの世界が全く変容してしまったことに気付く、彼女の瞳の光、風に靡く髪の毛、白く皮膚の薄い肌、薔薇色の頬、野苺のような脣……、彼女は今や世界の秩序の中心に据えられている。彼はただ呆然とその眩暈的な歓喜の中に立ち尽くして、その光景を時間の観念すら喪失したように眺めていた……。
 不意と立花岬が立ち上がって辺りを伺うような視線で呉田遼平の瞳を捉えた後歩み始め、呉田遼平もそれに続いた。彼は先を行く少女の花車な後ろ姿を眺めながら、何か話し掛けてみようかと考えてみたが、折角の調和を壊すような気がしたからそれは憚られた。彼の内部では叫び出したいほどの喜びが奔出し得ぬまま、しかし今にも迸り出そうになりながら亢まり続けた。
 白樺林の散歩道を抜けて彼らは湖の畔に出た。既に太陽は西に傾き、どことなく黄昏の雰囲気が漂い始めていたから彼は当初考えていた手漕ぎボートに乗るという計画を諦めた。その所為で中途半端な時間が生まれ、二人はそれを持て余すような気分で駅へと向かった。
 こうして彼女と一日を過ごせたはいいが、しかし僕には決定的な行動に出ることが出来なかった、と彼は考えた。とするなら、この一日は特に明確な意味を持ちやしない。つまり、今日のデートは今までのような、喫茶店やらで過ごした無為の時間の延長に属するということなのじゃないか。確かに僕らに共通の思い出を作ったかもしれない、その絆を幾らかは靭めたかもしれない。しかし、今までの関係性から抜け出さない限り、それらは無意味だろう。……客観的に見ればこの一日にも大いに意味はあるはずだ、これは大きな前進のはずだ、こうして徐々に僕らの関係を靭めていけばいいはずだ。しかし僕には到底満足できない。僕は彼女に言い寄ってくる男を退ける権利、それを保証された立場を得たいのだ。それを得るまで僕の焦燥は続くだろう……。だからと言って急いてはいけない。しかし……。
 ――何を考えていらっしゃるんです? と立花岬が訊いた。
 彼は逡巡しながら彼女の瞳を見詰め、立花岬はその視線に対して笑みを浮かべた。
 ――ええと、そうだなあ……、と彼は猶予を作って言葉を選び、さっきあの白樺林で君は白い花を見詰めていたね、あれは何ていう花なんです? と訊いた。
 ――あれはアネモネの花です。
 ――そうなんだ。君はアネモネが好きなんですか? やけにじっくりと眺めていたようだが。
 立花岬はその問への返答を躊躇った、直ぐに好きか嫌いかを答えてしまえばなんでもなかったろうに。で、彼女は困ってしまった。これだけ時間を使ってしまっては、怪しまれるかも知れない。誤魔化すことは不誠実に思える、今まで一度も呉田さんに嘘を言ったことなんかないのだし……。でもだからと言って先程考えていたことを吐露してしまうのは恥ずかしい。
 彼女はその恥ずかしさを恋であると一瞬錯覚しかけたが、直ぐにそれを振り払った。そうして、
 ――アネモネには様々の色があるんです、と言った。赤や青や黄や紫や……、それなのに白いものしかあそこにはなかったから、それを少し不思議に思って……。
 ――へえ、やっぱりその色毎に花言葉なんかも違ってくるんです?
 ――ええ、と言って彼女はさっき読んだ説明板を思い出そうと試みた。白だと……、確か期待、希望、真実です。
 その言葉を聞いて反射的に呉田遼平は、
 ――君によく似合いますね、と言った。
 立花岬は顔を赧らめた。それを見て彼は遠慮勝ちにその左側を歩く立花岬の右手へ自らの左手を伸ばした。しかし、彼は矢張り臆病だった。が彼は尚も懸命にその試みを為そうとして、喉から声を振り絞るように、
 ――ねえ……、手を繋いでもいいですか? と訊いた。
 ――ええ、と立花岬は答えた。
 呉田遼平は怖ず怖ずと彼女の手を取った。それは陶器のように滑らかでひんやりとしており、彼はそれ迄自らの節くれ立った手を基準にして彼女の肌を想像することをしか為し得なかったから、彼女の手に触れた時の衝撃と歓喜とはひとしおだった。そうしてその眩暈の後には彼女の手を触れることを許されたという喜びが彼の心中を満たした。
 それと同じような効果は立花岬の内部では起こらなかった。彼女の胸は特に亢まることもなかったし、何より彼女が感じたのは安心のみだった。確かに安心は愛の一要素かも知れないが、しかしこの場合のそれを愛の最初の段階と言うのは誤りだろう。愛の結晶作用を経た後の安心だったなら、それは何よりも素晴らしい一つの調和なのだろうが。

 

【過去(遡行的)】 

 

 むかしのあこがれはまたさながらに戻つてきて

 暗いうたかたに咽び泣いてゐる

 灯のともつた鐘楼からひびきは黄昏にこだましても

 椿の花はもうこの流れを流れてはこない

       福永武彦『ひそかなるひとへのおもひ』より

 河野晶は人々の寝静まる頃になるのを待って下宿を出、辺りの静寂に耳を傾けながら家々の建ち並ぶ住宅街を抜けて河沿いの歩道へ出た。不意と彼は夜の光を受ける紫陽花に眼を留めると、その寂しそうな顔の口元に微かに笑みを浮かべた。彼は尚も河の畔を暫く歩み、散歩者の為に設えられたベンチに腰を下ろして煙草に火を点けると、河の流れに眼を遣った。彼の心の涯しの方を、その河の穏やかなせせらぎが優しく洗う。

 ……あれは初春の夜のことだった。僕はその頃から出来し始めた不眠症に苦しんでいて、ベッドの上にじっと横になっていたものの自らの心臓の鼓動がそのベッドを揺らすように思えてたまらず自室を飛び出した。春といえどもその異国の街はまだ肌寒く、そうして静まり返っていた。僕は我武者羅にその街を、まだ道すらも覚えていないのに突き進んで名も知らぬ河の畔に出た。美しい月がその河の面に揺蕩っているのが僕をしてそこへ腰掛けさせた。僕はクリスチャンではないがその時は柄にも無く、この美しい光景とその静寂とを創った造物主がいるならそれに感謝したい、とさえ考えた。それから僕は決まって夜中になると粗末なアパルトマンを抜け出して市内をあても無く彷徨いた後に、その河の畔に佇むようになった。
 春も終りに近付いたある晩、いつものように河の流れを見詰めていると数輪の椿の花の流れて来るのが眼に入った。川上の方へ眼を遣ったが特に椿の咲いている様子は無く、僕は不思議に思い、腰を上げて歩き始めた。その河沿いの道には街灯が続いており、その光が自分を誘っているかのように思えてきた。何となく街灯を数えながら歩みを進めていると、十四個目のそれの下に、上方からの光に照らされている一人の少女の姿が眼に入った。その少女は花の無い花束を持っていた、悲しそうな表情で河の流れを一心に眺めながら。
 僕の足音を耳にしたのか、その少女は顔を上げて潤みをもった瞳でこちらを見た。
 ――こんばんは、と僕は言った。
 その発音が不明瞭だったのか、彼女は尚もその瞳で窺うようにこちらをじっと凝視し続けた。
 ――こんばんは、ともう一度言った。
 ――こんばんは、と彼女は美しい発音で挨拶を返した。
 僕が何か話しかけようとした時、川上の方から一人の紳士がやって来て彼女と会話を始めた。僕には彼らの言葉を聞き取ることは出来なかったが、不穏な何かがその会話に影を落としていることだけは諒解された。次第にその男性の言葉に怒声のようなものが混じりだし、僕は気不味さを覚えてその場を後にしようとした。去る前に一度ちらりと彼らの方を見遣ると、少女の悲しそうな眼と僕の眼とが合った。その眼は助けを求めているようにも、しかし全てを諦めているようにも見えた。僕は後ろめたさを靭く感じながらもその場を離れることにして、足早に歩みを進めた。しかしその印象を拭い去ることは出来ず、それは次第に罪悪感のようなものへと亢まって僕を苛んだ。僕は我武者羅に歩き続け、朝日の上った頃に漸く自分の部屋に戻るとそのまま着替えもせずにベッドへ向かい、倒れるように眠りに落ちた。
 眼を醒ます頃にはもう陽は沈み掛けており、僕はシャワーを浴びた後、簡単な食事を認めると煙草を片手に出窓へ腰掛けてその窓を少し開けた。
 商人の威勢のいい文句の響く街を、あどけない少年少女たちが駆けていく。彼らに遅れて、一人の少女が友達の名を叫びながら追い掛ける。広場のベンチに腰掛けた老人がそれを微笑ましく見詰めている。着飾った娘が街を見下しながら――その少女はそれと同時に自分をも見下している――広場を横切って行く。
 黄昏に響き渡る街の音を聴いていると不意に、「人々は生きるためにこの都会へ集まってくるらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ」というリルケの『マルテの手記』の最初に書かれている文章が僕の内部に浮かんだ。「だからどうしたっていうんだ、」と僕は小声で呟いてみた。煙草が指を焦がす程短くなったのに気付いてそれを灰皿へ押し付けた。その孤独の部屋で夜を待って、僕は河へと歩き出した。
 いつもの場所から十四個目の街灯まで僕は歩いた。そうして河の流れを見るともなく眺め始めた。そこから見る河はいつもと違って余計に物悲しいように思えた。僕はどのくらいその孤独の音に耳を傾けていたことだろう。
 ――こんばんは、と言う声が聞こえた。
 僕が後ろを向くと、昨日の少女がそこに立っていた。
 ――こんばんは、と僕は返辞をして、昨日振りですね、と続けた。
 少女は静かに頷いて、
 ――昨日はお見苦しいところをお見せしまして、と言った。
 ――僕には何も分りませんでした。僕はこの国の人間じゃないのです。
 そう僕が言うと、彼女は何か腑に落ちたような仕草をしてから、僕の為に明瞭なゆっくりとした発音で言った。
 ――何かをお勉強中ですの?
 ――春からこの国に留学しているのですが、特にこれといって……、まあ絵画や音楽やを本場で鑑賞するために来たようなものです。
 不意と彼女の瞳に影のようなものが差した。
 ――ごめんなさい、私もう行かなくちゃ、と彼女が言った。
 そうして僕の言葉も待たず、彼女は歩き出した。僕がそれに着いて行くのに気付いて、彼女は対岸へ渡る橋の袂で振り向いた。
 ――ついて来ては駄目、この橋の向こう側は危ないところだから……、と言った。
 僕にはその意味を理解することは出来なかったが、彼女の言葉に従って回れ右をして歩き始めた。僕が下宿へ帰ってその扉の鍵を下ろした時、部屋の時計が午前一時を報せる鐘を鳴らした。僕は適当な本を数冊机に置いて、孤独と静寂との中で勉強を始めた。書物から気に入った言葉を見付けてはそれをノオトへ書き込んだ。煙草の吸い殻が灰皿を一杯にした。僕の生が灰となって、そうしてそれだけが溜まっていく、……しかしいつしかその灰の中から不死鳥が羽撃き始めるように僕の生は再び動き始め、僕の魂は蘇るだろう。僕は数行の美しい詩句を生み出そうと試みた。午前二時の鐘が鳴った。不意とアイデアが湧いたような気がしてノオトにペンを走らせた。しかし途中から勢いを失った陳腐な死んだ文字だけがノオトを埋めるに過ぎなかった。僕は只管に霊感を待った。が、それは一向に捗らないまま徒に時間だけが過ぎた。僕は少し眠った。午前四時の鐘を聞いて、僕は再び河へ向かった。そうして彼女の面影を求めて暗い水面を凝視した。
 夜明けの光の差す頃、石畳をこつこつと鳴らす靴音が聞こえてきた。僕がそちらへ眼を向けると、そこには彼女の姿があった。彼女は僕を認めると驚いたような表情をして、
 ――まあ、あなた、ずっとそこにいたの? と訊いた。
 ――いや、一時間程前からです、と僕は答えた。あの後下宿へ戻って、暫く勉強をしました。そうして一眠りしてまたここへ来てみたのです、あなたと会えるかも知れないと思って。
 僕がそう言うと彼女はその唇に指を当て、少し考えるような仕草をした。そうして、
 ――好かったら少し散歩をしましょうか、と提案した。時間はあるのでしょう?
 そう言うと彼女は川上の方へ向かって歩き始めたから、僕は慌ててそれに従った。僕は彼女に追い付くとその右側を歩いた。朝の爽やかな風が彼女の色素の薄い髪の毛を揺らし、花のような香りが香った。それは快活な、最初会った時とは違う印象を僕に与えた。僕は心の中でその二つの対照的な印象について考えた。そうして彼女の方をちらちらと見遣り、その度に僕は美しいものを偸み取るような快感を味わった。僕らは無言で歩き続け、教会の傍のベンチに腰を下ろした。厳かなパイプオルガンの旋律と賛美歌の調べとが微かに聴こえてきた。
 ――ねえ、あなたは信仰を持っていて? と彼女が訊いた。
 ――信仰ですか、僕はヤンセン主義者のようなものです、と僕は言った。人間は惨めな、弱い生き物です。神の恩寵、神の教えが無い限り決して救われやしません。
 ――私もそう思うわ。
 ――しかし、僕の国には信仰なんてありやしないんです。ソドムやゴモラのようなところですよ……。
 ――それでも、教会はあるのでしょう? そこに神を信じる人々はいるのでしょう?
 ――ええ、しかしそれは借り物の神様のようなものだと僕には思えるのです。僕らの文化ではない。僕らの生の土台になるようなものじゃないんです。そりゃ彼らは真剣に信じているでしょう。でも、僕には、そして大多数の人間には関係のないところで彼らは祈っているのです。僕に信じられるのは、神の恩寵とその教えとの欠けたキリスト教、つまり人間の惨めさと弱さとだけです。
 ――それってとても悲しいことね……。
 ――ええ、と僕は言った。だから僕の拠り所といえば自分の孤独くらいですね。その孤独を恃むことをしか、僕には出来ないのです。
 ――私、あなたのために祈ります。
 ――ありがとう。
 その後は取り留めのない雑談を交わし、僕は彼女の名前がシルヴェーヌであることと、今年で十八歳になることとを知った。僕らはまた翌日の朝にこの教会の前のベンチで会うことを約束して別れた。僕は彼女と過ごす幸福の想像を弄びながら下宿へ帰り、幾らか勉強を試みた後に眠った。
 
 眼を醒ましたのは夕方だった。僕は黄昏に染まる街を眺め、不意と外出でもしようと考えて簡単に身嗜みを整えると下宿を出た。が、特に行く宛も無かったので広場の噴水の縁に腰掛けて何となく人々を観察し始めた。僕は十分ほど様々の人々を眺めたが、その中にシルヴェーヌよりも美しい女性は一人もいなかった。そのことが僕を満足させ、それを明確に意識した瞬間、僕には僕が彼女を愛し始めているということも意識された。それはとても甘美な自覚だった。僕は愛する少女の名を、そっと口の中で呟いてみた、「シルヴェーヌ、……僕は君を愛している、」と。僕はその幸福感から演繹して、あの少女こそが僕のこの貧困な現実を意義のある、美しいものにしてくれるmuseなのだと考えた。彼女の日差しを受けて輝く髪、白く透き通った肌、夢見るような菫色の瞳……。最早居ても立っても居られなくなり、僕は河の方へ駆け出した。しかし、不意とその時、彼女の仄暗い印象が僕の内部を垂直に降下した。何故忘れていたのだろう、僕は幸福に眼が眩んでいたのだろうか?……花の無い花束を持った彼女、その後の紳士との遣り取り、その時の悲しみと諦念との交じったような瞳、「着いて来ては駄目、この橋の向こう側は危ないところだから……、」という言葉……、そこから僕は陳腐で悲劇的な想像を導き出し、それを振り切るように頭を揺すった。しかしそれを振り切ることは出来なかった。彼女は夜の職業をしているのじゃないか? その考えと今朝の美しい聖女のような彼女の印象とが不思議に混ざり合った。しかしどうしても僕は彼女を美しいものとして見ることをしかし得なかった。僕は遂に橋の前へまで至るとその橋を越えた。そうしてその区画を観察して歩いた。僕は客引きの女達とすれ違っては、そこに彼女の姿を見出さないのを安堵した。しかし、この街の全てを見なければ僕には安心することなど出来ないのだ。僕はそのまま日の出まで歩き続け、疲れ果てて下宿へ戻ると少しだけ仮眠を取り、彼女との約束の場所へ向かった。
 ――あなた大丈夫? と僕の顔を見るやシルヴェーヌは言い、僕の隣に腰掛けた。ひどい隈が出来ているし、顔色もお悪いわ。
 ――ああ、大丈夫です、と言って僕は彼女の手を取った。
 シルヴェーヌは僕にその手を委ね、そうして僕の肩へその頭を乗せた。僕は彼女の肩を抱いて僕の方へ押し付けるようにした。
 ――少し痛いわ、と彼女は小声で言った。
 彼女は、僕が一向に何も言わないので不審そうな眼差しでこちらを覗き込んだ。尚も僕が口を開きそうも無いのを見て、
 ――どうかなさったの? とても悲しそうね、と言った。気分が優れないの? 
 僕はシルヴェーヌの眼を見詰めて、
 ――君はとても美しい……、と言った。
 彼女は頬を赧らめて、そうしていやいやをするように顔を背けた。それは生娘のような、清純な動作だった。
 ――僕は、君を愛しているよ、と言った。僕は苦しい。
 ――私もあなたが好きよ、でも……、どうしてあなたは苦しいの? どうしてあなたはいつも悲しそうなの?
 ――君があの橋を渡ったのは何故? 初めて会った日に君と話していたあの男は一体何者なんだ? 
 僕がそう問い質すように訊くと、彼女は眼を伏せた。長い睫毛がその頬に暗い影を落とした。彼女は暫く逡巡し、大きく深呼吸をした後に話し始めた。
 ――私は娼婦なの……。それで、あの時の男の人は私へ求婚している人よ。私にはあの人と結婚するつもりはないのだけど、でも時間の問題かも知れないわ。
 ――そんなのは駄目だ、と僕は叫ぶように言った。
 ――でもしょうがないことなのよ。私には養わなければならない家族がいるの。あなたはいつまでこの国にいるの?
 ――来年の夏までだよ……。それがどうかしたの?
 ――じゃあ、それまで私達恋人同士になりましょう。それくらいなら仕事をしなくてもなんとかなるわ。きっとお金を出して下さる方がいるの。
 ――そんな……、そんな悲しいことを。
 僕の言葉を遮るように、彼女は人差し指を僕の唇に当てた。
 ――どうしようもないことなのよ。だってあなたは国に帰って立派な人になるのだし、私には家族がいるの。どうしようもないことなのよ。
 ――だからって、君一人が犠牲になるだなんて間違っている、と僕は言った。
 ――どうしようもないことなのよ、と彼女は繰り返して言った。私の提案を受け容れて。私にはそうするしかないのよ。
 最初から、その終りが見えている愛だなんて……、こんなに悲劇的な愛があるだろうか、と僕は考えた。彼女を所有することは出来るのに、その幸福を他の男の財産に負うだなんてそんなに惨めなことが他にあるだろうか……。しかし、彼女への思慕を断ち切ることなどとても出来やしない。
 ――僕はそれでも君を愛さずにはいられないよ……、と僕は言った。
 それは僕の真実の言葉であり、且つ彼女の提案を飲む卑怯な言葉でもあった……。
 僕は彼女と一緒にいる時は強いてその作り物の幸福を甘受しようと試み、彼女が傍にいない時は愛する女性一人さえもを救うことの出来ない己の無力を、運命を呪った。僕には絶望しか見えなかった。僕はその運命の悪意を憎んだ。が、結局はそれに身を委ねることをしか、僕に出来ることなどありやしなかった。
 ある夏の日、僕とシルヴェーヌとは二人で音楽会へ出掛けた。その日のプログラムはショパンピアノ曲だった。僕らはその始めから終わりまでずっと手を握り合っていた。曲と曲との合間には人目を気にせず唇を重ね合った。僕は世界中の人々に、シルヴェーヌが僕のものであることを見せ付けてやりたかった……。
 音楽会の最後を飾る曲の演奏が始まった。ホ長調の穏やかな甘く美しい第一主題が優しく響く、愛する喜び、シルヴェーヌとの出会い、彼女を靭く愛しているという自覚、彼女の身体の柔らかな温もり、その幸福の眩暈の高潮と持続……。俄に沈み込んだ後の軽快な調べ、彼女と歩いたあの河沿いの道、彼女と僕との足音、穏やかな日差し、不意と眼が合って交わされる口付け、彼女と別れる際の微かな悲しみ……。不協和音のような破壊的な和音の連続、激情の調べ、駆け上るような不吉な音の連なり、メランコリーな美しい旋律……、自己への苛立ち、その中に潜む狂おしいほどの彼女への愛、愛と嫉妬との無限の亢まり、絶望的な愛、不可能の愛、カタストロフの予感……、そうして再び序盤と同じ穏やかな甘い第一主題へ……。全ての思い出とそれに付随する感情とが僕の内部を満たした。それらはとても美しいものに思えた。しかしそれは追憶の美しさだ、と僕は考えた。全ての苦々しい過去はその記憶の結晶作用によって癒され亢められ、甘く美しいものとなる。しかし、しかしそれは……、
 その曲の終りを僕らは涙に濡れながら迎えた。僕らはホールの売店でショパンエチュード第三番のオルゴールを買って贈り合った。
 二人は先程の曲の印象を留めながら無言で帰り道を歩んだ。僕らは確実に幸福の中にあった。そうしてそのまま僕のアパルトマンへ着くと彼女は僕のベッドに腰掛けて、僕はそこから少し離れた勉強机の前に置かれた椅子を占めた。シルヴェーヌはハンドバッグから先程のオルゴールを取り出すとその蓋を開いた。その音はとても寂しく孤独の部屋に響いた。僕と彼女との間には常にカタストロフの深淵が横たわっており、その絶望的な断絶によって僕らは常に孤独だったのだ。しかし、それこそが人間の姿なのじゃないか、と僕は考えた。彼女の傍へ行ってオルゴールを閉じると、僕は彼女の唇に自らのそれを重ねた。彼女は僕に凭れ掛かり、その身を横たえた。それを見て僕は彼女から離れた。
 ――あなたは私を愛していないの? と彼女が訊いた。
 ――僕は君を愛しているよ、と答えた。誓って、僕ほどに君を愛することの出来る人なんかいやしないさ。
 ――じゃあどうして……、
 河野晶は自分の回想がそこまで差し掛かると強いてその追憶を打ち切って、薄明の差す中を自らの下宿へ向かって歩き始めた。彼の内部には、「彼女はもういないのだ、彼女はもういないのだ、彼女はもう……、」という虚ろな囁きが次第に増幅しながら響き続ける……。

 【夏】 


 前期も終わりに近付いた或る日、とある教授の主催する小規模な宴会が催された。そこにはその教授の受け持っている幾つかの授業の受講者が十数人集まっていて、その中には呉田遼平と立花岬との姿もあった。呉田遼平はそのF…教授を尊敬しており、その話を嘗てから聞いていた立花岬もまたその授業を履修していたから。
 その会場へ不意と一人の青年が滑り込んだ。それは河野晶という呉田遼平と同窓の学生で、ほんの一週間前に一年の留学を終えて帰国したところだった。彼はきょろきょろと辺りを窺って、呉田遼平達の座っている四人がけのテーブルに一つの空席を見付けると真っ直ぐにそこへ行き、
 ――やあ、と呉田遼平に声を掛けた。
 ――河野か、驚いた。帰国したんだな。しかし珍しいね。君がこんなところへ来るだなんて。
 河野晶は多くの時間を独りで過ごしていて、学部の仲間からは変わり者だと思われていた。しかし、それは決して彼を揶揄するようなものでは無かった。彼の憂愁を帯びた眼差し、その瞑想的な雰囲気は一種の尊敬さえも集めていたし、そんな彼を秘かに慕う女学生の数は少なくなかった。
 ――僕だってたまにはこういう場所へ顔を出すこともあるんだよ、と素っ気なく言った。
 そうして河野晶は呉田遼平の横の座布団を占めた。で、彼は対面に座っている上田佳子とその隣の立花岬とに向かって簡単な自己紹介をし、女性二人もそれに倣った。
 ――河野、留学の話でもしてくれよ、向こうはどうだった? と挨拶の済むのを待って呉田遼平が訊いた。
 河野晶は悲痛な表情をその顔に浮かべて俯いた。
 ――特に何もなかったよ、と言った。
 しかし尚も呉田遼平が煩く催促するので彼は渋々と喋り始めた。
 ――僕の留学は、人間は常に孤独であるという嘗てからの考えを靭めた……。人間は惨めなものだ。僕は別にジャンセニストじゃないけどね。とにかく人間は皆不幸であることを宿命付けられている。しかし神の恩寵なんかありやしない。人間はただひたすら運命の悪意のようなものに押し拉がれるか弱い存在なんだよ。それ以上でもそれ以下でもない。僕が信じるのは自らの孤独のみだ。人にはそれしか恃むところがないんだ。
 ――しかし、人生には明るい面もあるだろう? と呉田遼平が言った。
 ――君は美しいものだけを見ていればいいさ、そのお嬢さんのようなね。君の書いたものを送ってもらって読んだからそれくらい分るよ。しかし、人生は決して幸福なものじゃない、と河野晶は言い、続けて口の中で、いつかその美は奪われるだろう……、と呟いた。
 河野晶と呉田遼平とがお互いを見据えて、一種陰険な空気が場を支配した。河野晶は視線を彷徨わせ、不意に立花岬と眼が合った。
 その時、立花岬は霊感のようなものを感じた。彼女はこれまで人のそういう憂愁の眼を見たことはあったが、自分に対して向けられたことは無かった、彼女は今まで無条件に愛されるような存在だったから。不意と彼女は彼の整った顔とそれに不似合いな暗い瞳とから、アネモネの花のような不気味な印象を感じた。それは彼女をして、この人は自分を憎んでいるのじゃないかしら、とすら考させる程だった。何て恐ろしい、寂しい瞳だろう。その冷たいような、憂鬱そうな瞳の中には、私の今まで知らないものがある。……この人の内部には何か恐ろしい深淵のようなものがあるように思える。それが一体何なのか、私はとても知りたい。でも……、
 河野晶にはその少女の瞳が美しいものに思えた。花はそれが最も美しい時に摘み取られるべきだ、そうしてその役目を果たすのが僕であることに何の不都合があるだろう……? と彼は考えた。生とは常に孤独に試みられるものであり、そのエゴの充足を目指すものこそが、生の強者だろう。
 ――僕、そろそろ帰る、と河野晶は言い、
 ――そうか、今度君の帰国祝いでも開こうよ、また話そう、と呉田遼平が言った。
 その二人の会話で立花岬はその意識を現実へ戻したが、河野晶は一種の妖しい印象を彼女の胸に残すように直ぐ様その場を去った。

 

 ***

 

 立花岬は冷蔵庫へ丁寧にしまってあるケーキを確認した後エプロンを脱いで着替えを済まし、お座敷の麩を滑らせた。そこには友人である上田佳子が慎ましく座っていて、彼女を笑みながら迎えた。
 ――ごめんなさいね、招いたのに構いもしないで放ったらかしてしまって、と立花岬は詫びた。
 ――いいのよ、でも岬さんたらひどいわ、と故意に怨ずるような表情を作って上田佳子は言った。私にだって料理のお手伝いくらい出来るのよ。
 立花岬にはその調子が作り物であることは容易に見抜けたし、そのふざけたような演技は見る人を微笑ませずにはいられないような種類のものだったから、
 ――そうねえ、でも怪我でもされちゃたまらないもの、それに私は佳子さんをついつい甘やかしたくなっちゃうのよ、と笑みながら言った。
 ――お料理を運ぶくらいなら私にでも出来るわ。そろそろ準備をしましょうよ。
 そうして二人は母家と離れとを数回往復し、料理と飲み物とをテーブルの上へ綺麗に並べた。ケーキとサンドイッチとだけではあったが、立花岬が真心を込めて作ったそれらは卓上を賑やかにした。
 この日は、呉田遼平の発案による河野晶の帰国祝いが催される日だった。しかし呉田遼平にはあまり多くの資金を投じることは出来なかったからその会場を実家暮らしの立花岬に求めた。彼女は同意し、彼女の家の離れを借りて会を催すことが決まった。呉田遼平は酒を用意することとその日の料理の費用とを担当し、立花岬はケーキを焼くことになった。そうして参加者が男二人と女性一人とでは決まりの悪いような気がしたから、立花岬が女友達を適当に一人誘うことで会の計画が立ち、万事は滞り無く進んだ。
 準備を終えた二人が雑談を始めて幾らか時間の経った頃、離れの玄関の開く音が聞こえ、それに続いて呉田遼平の声が響いた。そうして麩が開かれて呉田遼平と河野晶とが入って来た。呉田遼平は我が物顔で荷物を部屋の隅に置くと、河野晶から荷物を受け取ってそれを部屋の隅へ置き、部屋の中心に据えられた少し大きめな正方形の座卓の一辺に河野晶を座らせて、自分もその右側へ腰を下ろした。呉田遼平から右回りに、河野晶、上田佳子、立花岬という具合に彼らは座を占めた。時計を見るとその針は丁度午後六時を指していた。
 ――スケジュール通りだね、と呉田遼平が言い、じゃあ始めようか、と続けた。
 その言葉を聞いて立花岬と上田佳子とが飲み物を注ぎ始めた、呉田遼平と河野晶とにはお酒を、自分たちにはジュースを。飲み物が全員に行き届いたのを認めると呉田遼平は一つ咳払いをし、
 ――それでは……、河野晶氏の凱旋帰国を祝して、と笑いながら言ってグラスを上げ、乾杯、と続けた。
 四人は乾杯をしてグラスの打つかり合う小気味良い音を響かせ、そのグラスに口をつけた。呉田遼平はすっかり上機嫌だったから頻りと戯談を言ったりしていて、それに対して上田佳子はいちいち笑い声を上げていて、しかしそれと反対に河野晶と立花岬とは沈黙しがちだった。元々二人は寡黙なタイプだったが、それはまるで河野晶の憂愁が立花岬に伝染してしまったかのようにも見えた。二人の視線はその共通の思いを確認し合うかのように時々交わるのだった。
 食事を終えると河野晶は縁側に腰掛けて煙草を吸い始めた。暫くそうして青白い煙を暗闇へ目掛けて吐き出していたが、不意に室内が騒がしくなったから振り返って室内を注視した。どうやら、三人は立花岬の写真を収めたアルバムを見て楽しんでいるようだった。
 ――岬さんは小さい頃から美しかったのねえ、と上田佳子が心から羨むように言った。
 その言葉へ同意するように呉田遼平は頷き、立花岬は恥ずかしそうに顔を赧らめた。呉田遼平に呼ばれ、河野晶は煙草を灰皿に押し付けてその火を消すと三人の方へ歩み寄った。河野晶の近付くのに従って立花岬は増々赧くなってしまい、丁度彼の座布団へ腰を下ろした瞬間にそのアルバムを閉じてしまった。
 ――そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃないですか、と呉田遼平が言った。
 立花岬は自分の行為の裏に潜む単なる恥ずかしさではない感情が露出するのを恐れて、恥ずかしさこそがその行為のたった一つの理由だと思わせようと、その言葉に応えるようにアルバムを閉じた手をどけた。しかし彼女自身でもその感情が何なのかは未だにはっきりとは分っていなかった。彼女は、河野晶の恐ろしいような瞳で一方的に自らを見られることを恐れていた。自らの秘めた部分は、彼の深淵を見詰めるような瞳によって全て暴かれてしまうのではないかしら……。でもそれは一体何だろう。
 そこへ立花夫人が、ここ数年分の、アルバムへは収め切れなかった十数枚の写真の入った封筒を持って現れた。上田佳子は我先にとそれを受け取ると、その中の写真を取り出し始めた。
 呉田遼平はそれを見て、
 ――高校の卒業式と大学の入学式との写真なんだね、と言った。
 その声に立花岬の先程アルバムを閉じた印象を追っていた河野晶は顔を上げた。そうしてその写真を虚ろに眺めながら不意とある考えが自らの内部に浮かんだのを発見した。
 しかしそれは危険な行為だ、と彼は考えた。三人の眼のある中で写真を一枚偸み取るだなんて、馬鹿げている……。
 河野晶はじっと周囲を窺ってみた。何か皆の、少なくとも呉田とあの上田とかいうお嬢さんとの注意を逸らすような方法はないものだろうか。もしそれが不可能だとしたら、そうだな、複数枚の写真を手に取った後に一枚だけ抜き取ってしまえばいい。しかし、それではその行為から彼女の反応を引き出すことは出来ないだろう。何としても邪魔者の眼を逸らさなくてはならないが……。
 その時上田佳子が花を摘んで来ると言い残して母家へ向かった。それを見て河野晶は今こそが好機だと考え、自分の鞄から画集と文庫本とを取り出してその文庫本を自分の前に置き、画集を呉田遼平に渡した。呉田遼平が熱心にそれを眺め始めたから、河野晶は覚悟を決めた。彼は正面に座っている立花岬の視線を早々と捕まえ、それを意識しながら卓子の上に無造作に散らされた写真の一葉を手に取った。そうして再度彼女を見詰め、その瞳が自分を映していることを確認した後、素早く写真を傍らの文庫本へ差し込んで立花岬へ視線を戻した。二人はそのまま暫し見詰め合った。河野晶には彼女の頬に赧味の増すのが認められた。尚も二人は見詰め合い、河野晶は彼女がその行為を呉田遼平に伝えないことを意外に思った。それと同時に立花岬もまた自分の黙認という行為に驚いた。そうして忽ち二人の関係が共犯関係という甘美なものへと変わったことをお互いに意識した。
 立花岬は、はじめその自らの黙認という行為だけに驚いていたが、直ぐにもう一つの驚くべきことを発見した。しかし、その河野晶は自分を愛しているのかもしれない、という考えはどうしても突飛なものに思えた。彼女は自分では意識していないが、その少女らしい傲慢さから多くの人が自分を愛することを幾らか当然のことに思っていた。だから、呉田遼平が自分を愛することはあり得るべきことで、それが実際そうなったことに対してはただの安心感をしか抱かなかった。しかし今回は違った。謎に包まれた憂愁の青年から、こういう仕方でアプローチを受けることは彼女にはあり得ぬべき行為に思えるのだった。そうして、本来ならば自分を愛してくれるかどうか不安な、むしろ嫌われているのではないかとさえ考えもした人物から愛されるという想像は、その意外性の分彼女に大きな歓喜を与えた。
 もし河野さんが私を愛しているのだとしたら……、と立花岬は考えた。それはとてもロマンティックなことかも知れない。あの人の憂鬱そうな瞳の中には私の識らないもの、このまま生きていたら決して知り得ないものが潜んでいるのだから。その未知への憧れは彼女にとっては最早愛への憧れと同じようなものにすら思えた。そうしてその憧憬は漸次的に増していった。しかし、不意と彼女の左隣りにいる呉田遼平のことも意識に上ってきた。でも私にはもう、呉田さんという方がある……。別に将来を誓い合ったわけじゃあないし、そもそもはっきりと愛を囁いてくださったことすらない。でも……、呉田さんが私を愛していること、そうして私に愛されていると思っていることは確実で、お父様もお母様も私は呉田さんと恋人同士だと考えていらっしゃる。いいえ、そんなことは関係ないはず。大事なのは私が……、愛しているかということ。きっと私は呉田さんを好ましく思ってはいるけど愛してはいない。じゃあ、河野さんは……? 分らない。河野さんは頭も良いし、美しい人だ、同学年の女の子や先輩が河野さんの噂をしているのを何度か聞いたことがある。いいえ、そんなことは関係ない、私は……、
 麩の開く音に立花岬は意識を現実へ戻し、上田佳子が母家から帰ってきたのを切っ掛けに呉田遼平が画集を置いて口を開いた。
 ――やっぱしムンクは凄いね。
 河野晶はそれを受けて、
 ――うん、と言った。何よりムンクの絵は影がいいね。まるで実態を持って生きているかのような影だ。それは彼が凝視し続けて倦むことのなかった生の深淵だ……。
 ――そうやって君はどうしても暗い方へ向かうんだね、と呉田遼平が茶化すように言った。
 ――そうかも知れないね、しかしそれはしょうがないことだよ。
 ――君は徒に苦悩しているだけだ。
 ――生は、それが真剣に試みられる度合いを増すのに従って、死に近づくはずだ。キェルケゴール死に至る病のようなものだよ。そしてそれを支えるのは靭い孤独のみだ。僕にはそれの他に信じられるものはない。
 河野晶が言い終えると沈黙が齎された。立花岬は河野晶のその沈鬱な瞳に潜む何かを見、そうしてそれを問い詰めようと試みた。彼女のその瞳は美しい光を湛えていた。その時、河野晶と立花岬との横顔が美しいほどの調和の中にあることを、不意と呉田遼平は意識した……。
 その日の帰り道、河野晶は呉田遼平と共に駅へ向かっていたが、途中で気紛れを装って一人になると暫く歩みを進めた。そうして不意と立ち止まってポケットから、別れ際にこっそりと立花岬に渡された紙片を取り出し、それを再度読み返すとその指示に従って駅の傍の公園を目指した。彼は煙草に火を点けたが、それを吸い終えるより先にその公園に着き、その入口に手紙の差出人の姿を認めた。立花岬は公園の中へ入ってベンチへ腰を下ろし、彼もそれに倣った。
 ――どうして、あの写真を盗ったのですか? と立花岬が単刀直入に訊ねた。
 河野晶は何か適当な理屈を繕おうと考えたが、それは不可能なことに思えたから、
――……僕はあなたという美しい人を、その幸福を呉田の手から奪ってやろうと思ったのです、と言った。
 その彼の言葉は立花岬を驚かせた。そうして次に喜びがその慎ましく優しい胸を満たした。彼女にとってそれは河野晶が自分を愛していることの証拠に思えた。この瞬間彼女は生まれて初めて愛される喜びと愛する喜びとを漠然とではあるが靭く感じたのだった。彼女は夢見るような熱い眼差しで河野晶を見詰め、その瞳は今にも涙が溢れ出しそうな様相を呈し始めた。
 ――私、いま、とても幸せです、と立花岬は絞り出すように言った。
 そうして彼女は、愛する青年の方へ近付いてその手を取った。それは衝動的な動きだった。その頬は夜の暗きの中にあっても赧く、燃えるようだった。感情が理性を超えて彼女を支配した。彼女は火照った眼差しのまま河野晶へ凭れ掛かるように抱き着いた。二人の眼が合い、彼女は河野晶の唇へ自らのそれを重ねようとした。しかし、その時彼が叫ぶように言った。
 ――駄目だ。僕があなたを愛しているのは、あなたに嘗ての恋人の影を見ているからに過ぎない。僕はあなたを愛しているが、それはあの少女の代わりに愛しているというだけだ。僕が真に愛するのはあの少女だけだ。言ってしまえば僕は彼女に口付けすると空想しながら君と……、しかし駄目だ、やっぱり駄目だ。僕にはそんなことは許せない。僕は遠くから彼女を愛するように、君を愛しているだけでいい。そうしていれば、僕の愛の観念は純粋に僕の内部に保持され続けるし、君は美しいんだ。僕から離れてくれ……。
 その拒絶はあまりにも意想外なものだったから、立花岬には途方に暮れるように立ち尽くすより他はなかった。彼女の啜り泣くような声を聞きながら、それを振り払おうと河野晶は逃げるように去って行った。