一時間の授業

  一時間の授業   福永武彦と最愛の少女とに捧ぐ

 授業の終業を告げる鐘が鳴り響き、彼はその音に耳を傾けて後短くなった煙草を灰皿へ放って歩き出した、二限の授業に出席するために。彼は教室棟に入って直ぐの階段を上って少し歩き、教室のドアノブを捻って内部を窺いながら指定席とも言えるお決まりの座席を占めた。で、肩掛け鞄を下ろし、その中から数冊の文庫本を取り出して頁を適当に捲り始めた。
 彼のそうしている間にも、教室には学生たちが間断無く滑り込んで来て、彼らは少人数のグループを保ちながら各々好きな席へ腰を下ろしていった。そうして後から来た別のグループと融合したりして――友人を見付けた学生の威勢よく挨拶を交わす声がそこら中で響き渡って――教室内には分散しながら幾つものコロニーが出来ていったが、矢張り自らの孤独を守る為(或いは別の理由もあるだろうが)それらと距離を置くようにする学生も一定数存在し、彼もまたその中の一人だった。徐々に教室内の騒めきが高まっていくのに伴って、彼は苛立ちのような、何とも言えない遣る瀬無さを覚えた。
 彼は腕時計をちらと見遣って授業開始までまだ数分の間があるのを認めると鞄から煙草とライターとを取り出してその教室の出口へ向かったが、室内へ入って来る学生の群れによって大いに足止めを喰った。一瞬の間が空いたのを見逃さずに急いでそのドアを潜り抜けたが、その教室へ向かう学生たちの流れが彼を再び閉口させた。彼は人混みの隙間を縫うように早足で歩み、漸く教室棟から抜けだした。そうしてその出入口の直ぐ傍に設えられているベンチに腰を下ろし、煙草に火を点けるとそれを美味そうに喫んだ。吐き出される青白い煙が初秋の風に吹かれていき、その向こう側に、雑談を交わしながら群れて移動する学生たちの個体群が見えた。彼らは皆希望に充ちていて、この現在を真っ当に享受しているように思えた。
 人間嫌い、という言葉が彼の中に浮かんだ。モリエールの喜劇……、ベルクソンの謂によれば、「良識とは、相手が変わればこちらも相手に相応しく態度を変えるというような、相手と調子を合わすこと、その努力を怠らない心の粘り」だったかな。馬鹿げている。そんなことをしていれば、自らを見失ってしまう。しかし、失うのを恐れるほどの価値が、果たして僕という人間にあるだろうか……。傲慢な、そして青年期的な潔癖さ、それを保持しようと躍起になって、それを高めようと努力して、僕は次第に周囲との溝を深めていく。自らの手によって、自己と他者との間に淵をつくり、そうしてそれを拡大し普遍化して、「人間と人間との間にある絶望的な深淵」を意識し……、僕は自らの孤独の中に逃げ込んだ。
 「やあ。」
 その声が彼を思索から現実へと戻らせた。顔を上げると斉木という男が立っていた。斉木は彼に倣って煙草に火を点け、
 「調子はどう?」と訊いた。
 「別に普通だよ。」
 そう彼は素っ気なく返した、斉木相手にお愛想を言う気にはなれなかったから。しかし、取り敢えずお座なりにでも会話を保たせようという考えから、
 「君は?」と儀礼的に訊いた。
 「うん、まあぼちぼちかな、」と斉木はその言葉の端に何かを忍ばせるようにやけながら言った。
 彼は煙草の短くなったのをいいことにそれを灰皿に押し付けて丹念に火を消すと、
 「じゃあ、」と言って腰を上げた。
 斉木は物言いたげな眼差しを隠すように軽く会釈をした。
 彼は今の会話の印象、特に斉木の笑みから逃げるため、また教室へ始業の鐘がなる前に戻るため、急いで階段を駆け上がった。そうして学生とその騒めきとに満ちた室内の混雑の隙間を縫うように歩いて、既に取ってある席へ腰を下ろした。急いだ所為かほんの少し息が上がっていたから、彼は深呼吸をした後、眼を細めて前方の教壇を見遣り、教授である痩せた老人が黒板に書いている文字を読もうと試みた。彼の席はそれなりの大きさを持った教室の中列辺りだったが、視力の弱い故黒板に書かれた文字を読むことは出来なかった。
 でも別に読めなくてもいい、と彼は考えた。今書いているのは恐らく授業中に改めて教授の口から話されるだろうから。しかしその内容は僕を満足させるだろうか。精神的荒廃の中にある僕の魂は、その偏屈さ故に多くのものを受け付けない。そもそも人が人の魂を変革させることなんて滅多にないし、この場合は教授と学生と、という上下関係のせいで、僕くらいの年頃の青年にはその発言の善し悪しに関わらず、反感を持って受け止められるだろう。勿論尊敬を、心酔を紐帯とした上下関係ならそういう風にはならないだろうが。
 彼は文庫本を手に取って没我せんと試みたが、矢張り周りの学生たちの私語なんかに気を取られたから、それを諦めて何とも無く視線を周囲に彷徨わせた。と、一つ後ろの列に席を占めた一人の女学生と眼が合った。彼女は本の頁を繰る手を止めた。彼女の美しい瞳の印象が彼を強く惹き付けた。自らの無礼を恥じて彼は直ぐに正面へ向き直ったが、しかしその胸中では今の一瞬の結晶作用が行われていた。その瞬間は彼をして永遠を思わせ、それへの憧憬を生んだ、一つの楽器の音色が、その先の美しい調和を思わせるように。それはベルリオーズ幻想交響曲の始まりを思わせた。夢、そして情熱……、彼はそうして陶酔へ身を任せながらも、中世の聖職者、ニコラウス・クザーヌスの思想――“絶対的極大”つまり同時に“極小”でもあるところの極大である。神は極大と極小との統一である――を思い出した。そういう仕方で彼は理性と感情との統一、美しき調和をその内部にて試みた。
 彼女のその瞳、少し癖のある黒い髪、質素で趣味の良い藍色のワンピース、そこにあしらわれた小さな花たち、頁を捲る手付き、その音楽……、そういったこの女性を構成している要素、その僕に与える印象、それが僕のこの貧しい現実、乾いた、ざらついた内部の渇きに染み入ってくる。この観念の美を愛することで僕の魂は美しく浄化され、輝くだろう。そして僕はそういう仕方でこの名も知らぬ少女を愛している、と言ったらおかしいだろうか。何も彼女が美しいからという理由で、一目惚れのように思いが高まったわけでは決してない。これはそういう類のものではない。確かに綺麗な人だ、しかしそんな人はそこら中にいる。僕の内部にこの反応を、陶酔を惹き起こすということが大事なのだ。それは僕の側だけに起こったことかもしれない。しかしそれでいいのだ。それ故にこの想いは純粋なのだ。ああ、この胸の高鳴り、精神の純化……。謂わば僕は彼女自身ではなく、その僕に与えた印象を愛しているのだろう……。
 と、始業の鐘が鳴って、彼は夢想を打ち切った。教授が教壇へ上り、マイクを使って学生に呼び掛けた。
 「授業で使う資料が一番前の机に置いてあるから、皆さんそれを取りに来てください。混雑するだろうが……、周りを見ながら譲り合ってください。」
 彼は暫く辺りを窺いながら文庫本の活字を追い、自分の周辺の学生たちが腰を上げると彼らに倣うように立ち上がって歩みを進めた、自らの後ろに例の女学生の雰囲気を感じながら。彼には先ほど感じた印象の持続が尚も感じられ、そのことを喜ばしく思った。そうして数枚並んだ資料へ、自分に遅れて伸びる彼女の白い手、先の方が朱に染まった美しい指の、その丁寧な動作を盗むように見た。美しい髪の毛から、花のような可憐な香りが香り、再び二人の眼と眼が合った。資料を手にして席へ戻るまでの間、彼は彼女の足音に耳を傾けていた。
 席に着く際に、彼はさり気なく彼女の占めた机を見た。彼女は彼の右斜め後方の席を占めていて、その周辺には彼と同じように、周囲との隔たりがあった。それが彼女に寂寥とでも形容出来るような、一種の静謐な、そして清純な雰囲気を与えていた。その机に置かれたハードカバーの本に彼は見覚えがあるように思った。が、その本はタイトルを隠すように伏せられていた。
 孤独の雰囲気が、僕と彼女との魂を近しくしたのだ、と彼は考えた。そうしてその二つの孤独が不意と接近して束の間の調和が生まれたのだろう、少なくとも僕の側には。しかし或いは……。いや、もし僕が彼女を愛して、彼女も僕を愛したとしても、それが結局何になるだろう……。
 彼は暫し教授の方を見遣ったが、その話は傾聴するには値しないと判断し、文庫本へ集中しようと試みたが、後ろから聞こえた頁を繰る音にその意識は占領された。授業よりも読書を優先するというのは、一般的に考えたら彼女の(そして彼の)不真面目さの証するように思えるが、彼はそれを文学への傾倒の証だとして好ましく思った。で、見える範囲で教室内を、学生たちの様子を窺って見て、彼は自分の内部に描かれた幸福な情景――この人熱れのする教室の中で、僕と彼女とだけが自らの孤独を守り、距離を近くして書物に傾倒している――の現象しているのを確かめた。そうして彼は二人の頁を捲る音に傾聴して、空想に精神を委ね、様々の可能性に思いを馳せた。
 ……終業の鐘が鳴り、彼はさり気なく彼女の席を立つのを待って、自らも腰を上げる。孤立している二人は、多くの学生たちが友人と交歓のために歩みを止めたり、或いは学食の方へ向かって行ったりするのとは無関係に歩みを進めたから、次第に並んで歩くような形になる、まるで魂の清い二人だけが濾過されたように。彼には先程描いた幸福な情景を根拠に、彼女に話しかけても大丈夫だろうという気がしている。僕と彼女とは共通の境遇にあるのだから、少し話しかけたくらいで厭な顔はされないだろう、それに、傍から今の僕らを見た人がいたとして、その人が僕らを友人関係として見てもおかしくはないのじゃないか、と考えたから。そうして不意と、
 ――あなたも、あの授業が退屈だったのです? と訊く。何か本を読んでいましたね。
 彼女はその言葉を受けて、ほんの少し逡巡したものの、彼が先程傍に座っていた青年で、その流れで今に至っているのだから、彼もまた自分と同じような境遇にあることを意識して、
 ――ええ、と答え、でも退屈だとは思っていません、と続ける。退屈というより、……こういう言い方をしたら失礼かもしれませんし、あの講座の性質上しょうがないことですが、すこし初歩的過ぎるように思えます。
 ――そうかも知れませんね、と彼は笑んで言う。ところで何を読んでいたんです?
 彼が尋ねると、彼女は手提げ鞄から一冊の本を取り出してその表紙を見せる。
 ――ああ、道理で見覚えがあると思った、と彼は独り合点して言う。さっきその本の机に置かれているのを見たんですが、見覚えだけはあったけど分らなかった。K…さんの全集なんですね。僕はその人の著作は文庫で読んだから。
 彼の喋るのを彼女は静かに聞く。その瞳は彼がその作家の読者であるということを知った時、少し輝きを増したように見える。
 ――一巻ということは、初期の短編と、あとは中編とですか、と彼は続けて訊く。
 ――そうです、『S…』という作品を読んで興味がわきまして。
 ――ああ、あれは良いですね。僕も読みました。でも珍しいですね、K…さんを読むだなんて。
 ――周りには読んでいる人はすくないですね。あなたは何を読んでらしたんです?
 その質問を受けて、彼はその作家の小説の文章――この魂の静けさ、この浄福、この音楽、この月の光……。僕は今死んでもいい、こうやって、君を愛しながら、いま、――を思い出す。
 ――僕は……、
 と、マイクを持って何かを喋りながら歩んでいた教授が彼の傍へと至ったから、彼は礼儀的に空想を止めて開いていた文庫本を閉じ、後方に於いて同じような動作の行われたのをその音と雰囲気とから推察した。不意と教授が近くに座っている学生たちへ向けて質問を投げ、その辺りを中心にして沈黙が広がった。教授は幾つかのグループそれぞれへ、「君は先程引用した詩句から、何を感じましたか?」と質問をし、数人の学生がへどもどしながら自分の考えを述べた。教授は彼と彼女との座っている方を見て、そちらにも意見を訊いた。二人はどちらが答えるべきかと見詰め合ったが、お互いに出来れば答えたくない、ということを諒解し合っただけに過ぎなかった。
 「僕は、……よく分りません、」と彼は言い、「その詩人を信頼していませんから、」と続けた。
 「正直でよろしい、」とだけ言って、教授はまた別の方向へ質問を投げた。
 二人は再度眼を見合わせた後に読書へ戻り、彼は中断された夢想へ取り掛かった。
 ……彼と彼女とは大学構内に設えられたベンチに隣り合って腰掛け、先程の授業のことについて雑談を始める。肌寒さを感じさせる風が吹いて、少女は藤色のカーディガンを羽織り、彼はその姿を正面からみたいと考えて、立ち上がる。そうしてその動作の理由を示そうと、少し離れて煙草に火を点ける。不意と改まって、
 ――そういえば、あの時、答えてくださってありがとうございました、と彼女が礼を言う。
 ――いえ……、と彼はそれに応える。あなたの方がうまく答えられたかも知れません。僕のあの拙い意見なんかより、あなたの方がよっぽど、
 ――いいえ、私あの時本当にどうしようかと思いました。だって話を聞いていなかったし、そもそも誰の詩句を引用したのだろうかとばっかり考えていました。
 ――誰だったんでしょうね。
 彼のその言葉を聞いて彼女は、
 ――あなたも聞いていなかったんですか、と微笑みながら言う。あどけなさを証するような白い歯が見える。
 ――ええ、本を読んでいましたから、と彼は言い、煙草を吸って青白い煙を吐く。でも多分詩人が誰だか分っていてもああ答えていたと思います。だって詩人はその心情を、彼独特の方法で表現しますけど、それを理解するなんてよっぽど魂の近い人とじゃ無いと無理ですよ。
 ――そうかもしれませんね。
 ――もしそんな人がいたら……、
 辺りが騒めき始めて、彼は自らの腕時計を見て時刻を読んだ。授業の終わる時間だった。彼は背後に彼女の本と筆記用具とを片付ける気配を感じた。その動作からは、彼は今までのような細やかな幸福を感じることが出来なかった。終業の鐘が鳴った。
 もうこれで終りなのだ、と彼は考えた。彼女との繋がりは断たれた。幸福の錯覚は消えた。彼女の美しい印象は次第に色褪せ、そうしていつしか完全に消えてしまう、泯びてしまう。果たしてそうだろうか? あの瞬間は永遠なのだ。あの瞬間に於いて僕は永遠を見た。その陶酔、眩暈、恍惚……、そして今の僕の感じるこの渇き、執着、それがこの思いの強さを物語って、証しているじゃないか。もしそれが印象だとしてもいい、彼女の名前をすら知らないとしてもいい、例え人が僕を笑ったっていい、非難したっていい、僕は彼女を愛している。しかし。
 彼はいつの間にか配られていた受講票への記入を済ますと、人混みを掻き分けるようにして教壇へ至り、それを提出し、辺りを窺い少し離れた所に彼女の姿を見付け、その後ろ姿を追った。先程空想した通りに彼の名付けたところの濾過作用が起きて、二人は並んで歩き始めた。彼は何気ない風を装ってその歩みを進めていたが、彼女がちらとそちらを見たことに気付かない筈がなかった。しかし。
 挨拶くらいならしてもいいだろう、何故なら僕と彼女とは全く無関係というわけじゃないのだから。しかし、僕の夢想、あの美しい未来は、僕によって一方的につくられたものであり、それ故に美しいのだ。そこには僕の自由がある、輝かしい未来がある、無限の可能性がある。しかしそういう仕方で彼女を愛するのなら、僕には現実を犠牲にする必要があるだろう。いや、そんなことはない筈だ。現実を夢の境地へまで高めることこそが、本当に生きるということだ。しかし、しかし。……これまでにも何度か、人を愛そうとしたことはあった。しかし愛した人は僕を去った。結局人は孤独なのだ。だとしたらその孤独を守り、自分のみを恃んで生きるしかないじゃないか。そうだとするなら、この自らの内部にある美しい印象のみで満足すべきじゃないか。そうしていればその印象は、彼女は美しいままに保たれる。何も無駄に自らを傷付けなくてもいいじゃないか。しかし、それは自らの生に対して逃げを打つというものじゃないだろうか。……僕は彼女を愛しているのだ。傷付いたっていい、彼女が僕の愛を拒んだっていい。愛することで、人はその孤独を靭くするのだ……。しかし。
 途中で彼は歩みを止めた。そうして近くのベンチに腰を下ろして煙草に火を点け、彼女の去って行く後ろ姿を眺めた。次第にそれは小さくなっていき、彼女が大学の校舎を抜けると完全に見えなくなった。
 彼が煙草の灰を落とすと、それは風に吹かれて飛んでいった。風を眼で追いながら彼は、「名前も知らない、ただ偶然席を近くしたというだけの少女だ、」と口の中で呟き、「しかし僕はもうこんなにもあの少女を愛してしまっている、」と続けた。
 しかし彼の空想した未来は、ひょっとしたら本当になるかも知れない。それはあり得ることだろう、彼に自らの夢を現実へまで高め、力強く生を生きようとする意志がありさえすれば。