新年

 新年である。しかし僕は特に改まったり畏まったりしたような気持には一向ならない。というのも多分新年らしい雰囲気もイヴェントも何一つとして僕を待ち受けてはいないし、従って日々と変らぬ三が日があるというに過ぎないから。故にこれと言って書くべきこともない。それなのに何故こうして文字を認めているかといえば、単に暇だからである。しかし矢張り書くことはないんだから始末が悪い。

 今日僕は暇なりに部屋を片付けてみようとしたが、しかし右手の屈筋腱が二本とも切れるほどの大怪我をしており、その掌の傷はまだ完治していないし(一応縫い合わせてもらってはあるが、五日にある手術の際にまた切り開かれる)、どうも気が乗らないから矢張り捗らない。だからその辺に積み重なっている本たちを本棚のあるべき場所へ戻す作業をしながらも、自然と手は本の頁を繰っている。それは福永武彦という僕の敬愛する作家の『別れの歌』という随筆集である。ときに今年は氏の生誕百年に当る。で、その中に『知らぬ昔』という題で氏の片恋について書かれたものがある。

「僕は高等学校を卒業する間際に、ちょっとばかしはかない片恋のようなものをしたことがある。」その随筆はこんな文章から始まる。氏は映画館の地下にあったグリルにてレコード係をしているメッチェンに片恋をする。「蓄音機の側に若い娘が一人いて、レコードを掛けたり外したりしているのが、カーテン越しに見える。ただその部屋はいつも仄暗かったから、面だちは定かには分らないし、また決してカーテンを明けて(原文ママ)グリルの方へ出て来ることもない。そのメッチェンが、何時からともなく気になって来た。」こんな具合に。氏は友人たちとビールを飲んでいる際に思い立って行動を起こす。「(…)背中に仲間の者たちの視線を痛いほど意識しながら、カーテンの間からレコード室にはいった。蓄音機の側に腰を下ろしていた女性が、おどろいたように僕の方を見た。

――どんなレコードがあるんだか、ちょっと教えて欲しいんだけどなあ。

 早口に、とにかく、それだけ言った。レコードにろくなのはなかった。彼女はそれにあんまり音楽に詳しくないらしく、僕がむつかしい曲を訊くと困った顔をした。その困った顔が、翳りがあって、魅力的に映った。

 それから、どうしても、彼女のことが忘れられなくなった。僕がその部屋にいた間じゅう、彼女は少しも笑わなかった。歯を見せることもなかった。馴れたらせめて、お愛想笑いくらいはしてくれるようになるだろうか。」

 気のままにその随筆がどのような内容か引用を用いて綴ってみたが、この恋の続きの気になる人は是非この随筆を読んでみて欲しい。

ジユリエツトの家

 ジユリエツトの家(文體練習)

 私の家の直ぐ傍には一軒の素敵な家がある。それは美しい玄關と手入れの行き届いた庭と、さうして突き出したヴエランダとを持つてゐる。故に私はその家をジユリエツトの家と呼び、その傍を通り掛かる度、また自分の家の書齋からその家を眺める度に一人ふと空想の世界へ遊んでゐた。ジユリエツトの家は毎晩十九時頃になると玄關の明かりを燈すのだが、しかし不思議なことにその家には全くと言つて良いくらゐに人の氣配が無い。庭の隅の駐車場には車の出入りした形跡はないし、その家の窗も、全ての扉も、まるで今までに一度も開かれたことなど無い、とでも言ふやうにぢつと靜まり返つてゐた。だから私はその寂しい家に或る種の仲間意識のやうなものを、そして穩やかな愛着のやうなものをも感じてゐて、いつもその家の前へ來ると立ち止り、その突き出したヴエランダへ向かつては、「おお、私のジユリエツト……!」などと煙草の煙を吐き出しながらに呟くのだつたが……、しかし、その家からは全く人の匂いなどしないのだ。それだから、私にはその家についての空想を自由に弄ぶことが出來た。
 ……その家には幼くして父と母とを亡くしたお孃さんが兩親から相續した遺産を遣り繰りしながら、女中なんかと一緒に愼ましく過ごしてゐて、さうして毎晩決まつた時間になると、來るはずのない客のために明かりを燈してゐる……、お孃さんは清潔なテエブルに頬杖なんぞを突きながらずいぶんと長い間待ち焦がれてゐるのだ、――待ち草臥れて眠り込んでしまつたお孃さんを、穩やかなあたたかい色のライトが優しく照らし出す幸せで美しい情景、それはジユリエツトの家の閉じた性質故に、その中だけにそつと、守られてゐるやうに隱されてゐる……。
 ……かういふ空想は私の悲しみの氣に入るものだつた上に、私の滿ち足りない何かを滿たす作用があるやうでもあつたから、私は屡々惹き付けられるやうにその家を訪ね、心の中で、寂しい家の中に住むジユリエツトを訪ねるのだつた。つまり、私はさういふ仕方で、私の中にゐる誰かを待ちわびる自分をジユリエツトといふ形に形成したわけだらう。私はそのイマアジユの持つほろ苦い愛着に憑かれてゐた。
 
 ……或る日、私は自分の家の庭で讀書をしてゐた。しかし、春先のなんともそわそわさせるやうな陽氣の所爲か、それは一向に捗らず、私は苛立たし氣に無闇と煙草を吹かしてばかりゐたやうに思ふ。業を煮やしつつも書物に挑んでゐると、なんだかちらちらと、光線のやうなものを二度三度顏に投げかけられた氣がした。はて、一體何だらうかと邊りをきよろきよろすると、例のジユリエツトの家が騷がしいやうな氣がして、そちらが無性に氣になり出したが、一見する所特に晉段との變はりは無かつた。しかし、矢張り何だか氣に掛かるから、そちらへぢつと眼を凝らしてみた。すると、何處と特定することは出來ないが、確かに何處かが晉段と違うやうな氣が強くしてくるのだ。一度氣になつてしまふと、私の持つ神經質な部分も手傳つて、どうにも落ち着かない。忽ち私の空想癖もが相まつて、私はその家を惚けたやうに見詰め續けた……。
 暫くして、その家の扉が開いた。私にはそれがまるで私を誘つてゐるようにすら感ぜられて、思はず椅子から立ち上がり、そちらの方へ數歩動いた。すると、さつぱりとしたスウツを身に付けた若い男性が玄關を歩くのが見えた。その靑年が不意とこちらを向いてお辭儀をしたから、私もそれに倣つた。
 ――やあ、こんにちは1、と私が努めて朗らかに挨拶をすると、
 ――こんにちは。今日はいい陽氣ですね、と靑年が返辭した。
 なんだか久々に氣の好い靑年に會つたやうな氣がして、私には急に自分が元氣になるのが感ぜられた。人付き合いを避けて暮らしてゐた所爲で、私は人との會話に飢えてゐたのだらう。
 ――あなたはそこの家の方ですか。今まではいやにひつそりとしてゐる家だなあと思つてゐたんですが……、
 ――さう。今までずつと空けてゐたんですけどね、もう暫くしたらこの家を使う豫定になつたんです。
 ――といふことは……、では、あなたが越してくるんです?
 ――いえ、僕ぢやないんです。僕の母と妹とがここへ越すんです。都會は空氣があまり良くないんだから。
 ――では、あなたのお母樣は……、どこかお惡いんですか?
 ――さう……、少し肺を惡くしましてね。でもじきに治るでせう、ここは氣持の好いところですからね……。

 それから一二週間か經つた頃、愈々ジユリエツトの家に母娘がやつて來て、私はその二人の愼ましい引つ越しの樣子を窗から眺め續けた。私は例の靑年にその二人の名前を聞いてゐたから――母の名前は佳子といふ名前で、娘の方は桂子といふ名前だつた――その二人の姿を見ることは、心の中で觀念として弄んでゐた愛着のある存在が形を得るといふことで、それは自分の幸福な夢の誕生する瞬間を目の当たりにするやうだつた。さうしてそれらが私へ微笑んでゐるかのやうな錯覺が私には感ぜられた……。
 私は夜頃、ジユリエツトの家を挨拶のために訪ねた。私は人氣のなかつた所爲で未だに幾分か無機質な感じのする應接室へ通された。
 ――初めまして。私は桂子と言ひます。ごめんなさい、部屋の掃除がまだ終つてゐなくつて……、ここは餘りきれいな部屋とは言へないでせう? と桂子がお茶菓子の乘つたお盆を持ちながら入つて來て言つた。
 ――いえ、こちらこそ急に訪ねてしまつて失禮でしたね。お詫びが必要だとしたら、それは僕が言ふべきです、と私は言つた。
 ――あらまあ。厭なお人。あなたは皮肉屋さんなのかしら?
 さう言つて笑ふ桂子の瞳には惡戯つ子のやうなあどけない光が燈つてゐた。
 ――さう苛めないでください。さて、今日はこの邊でお暇しますね。僕はただ挨拶だけのために來たんだから。お茶とお菓子とをどうも有難う。私の家は直ぐ傍だから、何か困つたことがあつたら、いつでも訪ねてください。では。
 ――あら、すみません。そんなつもりで言つたのでは……、
 ――いや、決して氣を惡くしたわけではありませんよ。引つ越し後で疲れてゐるでせうし、お母樣の看病をなさつたほうがいい。まだ夜は冷えますからね。
 その家を後にして、私は自宅へと歸ることとしたが、あの讀書をしてゐた晝下がりのやうな何とも言へない騷めきを感じ、ふとジユリエツトの家を振り返つた。すると今までは玄關の燈のみが燈つてゐたその寂しい家はこれまでと違つて全體が優しい光に輝いてゐた。それが私にはあの時のやうに私を誘つてゐると思へて、そのジユリエツトの家の光景は私の脳裡へ靭く焼き付いた……。それは未だに私の中で現像したばかりの寫眞のやうに殘つてゐる。
 
 その翌日のことだつた。私が家で寛いでゐると玄關のチヤイムが響き渡り、さうして直ぐに元氣な聲が續いた。
 ――おはやうございます。私です、桂子です。
 私はその聲によつて自らの心が生き生きと活気づくのを感じながら、玄關へと向かつた。そこには餘所行きの恰好をした桂子が、その痩せぎすな體を兩手で庇うやうにして愼ましく立つてゐた。
 ――やあ、おはやうございます。どうしたんです?
 ――ちよつと食料品などを買いに出ようと思ひまして、もしよかつたらこの邊りを案内してもらえませんかしら? と桂子は言ひ、お晝をご馳走いたしますわ、と續けた。
 ――それは有難いですね。最近僕は無精が續いてゐるもんだから……。一寸待つてゐてください。
 さう言つて私は準備をする爲に一度自室へ戻り、上着と帽子とを備えた。さうして二人でこのK…村の商店街へと向かつた。
 私はジユリエツトの家を暫し名殘惜しげに見詰めてから、桂子と二人街の方へと足を運び始めた。夏へ向かふ植物たちの眩しい綠に少し眼の眩むやうな思ひをしながら、またちらほらと顔を見せる小さく鮮やかな花々の匂いに……、それらは私の神經には少し強すぎた、しかしそれは隣にゐるお孃さんの所爲だつたのではないだらうか? 桂子は幾つかの花を摘み取つては、それを花飾りのやうにして弄び續けてゐたのだから……。
 さうして暫く歩き、私達は水車の横にて休息を取つた。そこにはベンチが設えてあつたから、私達は少しの距離を間に置いて黙り込んだ。桂子はその時も草で作つた花飾りを弄んでゐたから、その沈黙は全くと言つて好いほど氣にならないものだつた。その指先の方が朱色に染まつた細く美しい指が繊細な動きでもつて花を曲げたりする動作が、矢張り私の眼には眩しかつた……。
 ――時に桂子さん、あなたは一體何歳なのです? と私はふと思ひ出したことが、ぽろりと零れ落ちたかのやうに訊いた。
 ――ええ、もうじき十八になりますの、と桂子は答えた。
 ――さう……。
 その後、何故だか私は唖のやうに黙りこんでしまつた。沈黙が二人を支配し、さうして私と桂子とはそれを共有した。それを切欠にして、私達を包み込む空気、その穩やかな雰囲気は出来し、その後も私達の間にて通奏低音のやうに鳴り響き續ける……。
 休息を終へて私達は街へ出た。私には、若しかすると私は私の友人と鉢合わせてしまふのではないだらうか、といふやうな不安があつたが、矢張りどうやらこのお孃さんは私に元気を與へてくれるやうで次第に私の憂鬱は消えて行つた。しかし若し友人に會つたとして、それが一體どうしたといふのだらう? その場合私はジユリエツトのことをどのやうに紹介すべきだらう……?
 私は普段と違って陽氣に振る舞つてゐたやうに思ふ、その時ばかりは……。我が物顔で桂子に街のことを教へたり、行きつけのカフェーなんぞに誘つたりして、氣付けばお晝を少し過ぎた時刻になつてゐた。
 ――いけない。お母様が待ち草臥れてしまふわ。
 ――さうね、急ぎませう。
 その會話を切つ掛けにして私達は家路に就いた。下り道の多かつた所爲か歸りは早かつた。矢張り私の方が歩くのは速いやうで、自然と先に進み過ぎた私が桂子を待つことは多く、それが私に幸福なものを與へた。坂道の上の方から、こちらへ向かつて早歩きでやつて來る桂子の少し上氣した顏、その薄桃色に染まつた頬やら瞼やらが私を蠱惑し續けてゐた……。
 ジユリエツトの家に着いて荷物を運び終へると、桂子は台所へ、私はその傍に置かれてゐる食卓の椅子に腰を下ろした。さうして私は母親の二階から下りて來るのを待ちながら、料理をする桂子の背中邊りを眺め續けた。その家では皆が何かを待ち詫てゐるのだつた。皆が料理の完成を待つてゐたが、それだけでは無く……、私は自分の寂しさを滿たすものを、桂子は母親の病氣の治ることを、母親は……何を待つてゐたのだらう? 母親の願ふことは、この寂しい家のジユリエツトが幸福になるといふことだらう……。その時不意と、私はその全てが叶ふ理想の未來は、私がロミオになることだと意識し始めたのだつた。私の意識の端つこの方で、桂子が母親を呼ぶ聲が響き渡つてゐた。
 お晝の準備が整つて、三人はサラダやら鶏肉やらスウプやらの並ぶテエブルを囲んだ。私は無遠慮勝ちに食事を進めてゐた。それは寂しい家を少しでも活気付けやうと思つてのことだつた。しかし私がさうしてゐる間に母親は料理を二三口食べると沈み込んでしまつた。さうしてそれを氣にした桂子も同様に沈み込んでしまつたから、私の一層元氣良く食事を続ける音だけが虚しく響いた。それだから忽ち私は倦怠のうちに逃げ込んでしまひさうになつたが……、
 ――はあ、もうお腹が一杯だわ……、と桂子が言つた。
 ――さうなの……、後片付けは私がやつておきますから、二人で散歩にでも行つてらつしやいな、と夫人が穩やかに言ひ、微笑んだ。
 私は食事を終へて軽い微睡みの中に落ち込みさうになつていたが、その言葉に何だか眼の醒めるやうな氣がした。しかし、どうも具合の悪さうなのが感ぜられて氣不味いままに黙り込んでしまつた。それを感じ取つたのか、桂子はまるで母親の言葉など聞かなかつた、とでもいふやうな素振りで晝食の後片付けを始めたから、私は素知らぬ顏で眠り込んでしまつた、佳子夫人と桂子との視線を微かに感じながら。
 眼を醒ますとどうも體が重いのだつた。はて、どうしたものだらう? と思ひながら立ち上がらうとするも、私はテイブルの上に手を組んでそこへ頭を乗せて寝てゐたのだが、その私の腕に桂子の腕がさり氣なく絡んでゐるやうだつた。しかしそれは桂子の腕が私の腕に絡んで來たのか、それとも私の腕が桂子のそれに絡んでしまつたのか、判然としない感じだつたから、私は再び眼を閉ぢてその穩やかな晝下がりを愉しみ始めた。さうして時折寝苦しいやうに體を捩つては、桂子の寝顔をこつそりと盗み取るやうに見詰めるのだつた。その顔に翳を落とす長い睫毛を、小さく開いた形の好い唇から覗く真珠のやうな輝きを、少し乱れた髪の毛のほつれを……。何度それを繰り返したことだらう。壁に掛かつた時計が三時の鐘を鳴らして、私はその音を恐怖した。しかし、尚も私は桂子の顔を眺め續けるのだつた。
 ――寝た振りなんかして、いやなひと、と不意に眼を醒ました桂子がはにかみながら言つた。
 その言葉、その時の桂子の微笑みは、私から言葉を奪つてしまひ、私は照れ隠しに窗邊に寄つて煙草に火を点けた。さうしてふと用事を思ひ出したとでもいふやうに、
 ――おや、もうこんな時間なんですね。僕はそろそろ辭去します。お晝ご飯をどうもご馳走様でした、と言つた。
 桂子は怨ずるやうな眼で私を見詰めた。私と桂子とは暫し見詰め合つたまま立ち尽くした。柔らかな西日が差してゐて、それが私には、まるで私達の幸福が融け合つてその部屋に充滿してゐるかのやうにさへ思へるのだつた。さうして私はその情景を桂子の潤んだ瞳の中にも見付けるのだつたが、しかしそれは直ぐに私から消え去つてしまふ、零れ落ちてしまふのだつた……。
 ――仕事が切羽詰まつてゐて……、また訪ねさせてもらひたいのですが……、と私は去つてしまつたものを再度捕らえやうとして言つた。
 ――ええ、いつでもどうぞ。私達いつでも暇を弄んでゐるんですから。
 桂子の返辭を聞いて安心した私はジユリエツトの家を後にした。

 自室に歸つた私は讀みさしの本の重ねられた机の前に立ち尽くした。どれを開いても全てのペエジに桂子のあのあどけない笑みが浮かんで來るやうで、私は直ぐに疲れてしまつた。畫集を開いても、音楽を掛けても、私はその中に桂子のイマアジユを探してしまひ、なんだか無性に苛々して來るのだつた。それだから私は忽ち消耗して、服も着替えずにベツドへ倒れこんだ。
 私は少し眠つたり起きたりを繰り返して、真夜中の變な時間に眼を醒ました。さうして何の氣もなく煙草を吸ふ爲に窗邊に寄つてみたのだが、そこでジユリエツトの家の二階に明かりの燈つてゐるのを認めた。その時丁度その二階の窗が開いてヴエランダに人が出て來、私はぢつと眼を凝らしたのだが、如何せん私の弱い視力が災ひしてそれが誰なのかを識ることは能わなかつた。仕方が無いから私は再び自室へ戻ると少しの酒を飲んで眠りに就いた。

 私は雀の鳴き声で眼を醒ました。外はとても好い天気だつたから、私は簡素な朝食を認めると散歩をする爲に外へ出た。
 春先の暖かい日差しを背中に受けながら曲がりくねつた山道を数十分か上つたり下つたりすると忽ち私は薄つすらと汗ばんでしまつた。上着を一枚脱ぎ、小高い丘の上に腰を下ろすと心地好い緑色な風が吹いて來て、私の心中を晴れ晴れとさした。私は春のお天道様の下で暫く煙草を吹かしたりしてゐた。氣の付いた頃には太陽は殆ど私の眞上に位置してゐたから、私は再び上着を羽織つて來た道を引き返し始めた。すると、少しばかり遠くの方からか、若い弾んだ聲の聞こえて來るのに氣が付いた。それは男と女との聲だつた。それだから、私は無意識的に耳を澄ましてこちらの氣配を感じ取られぬやうにし、さうして樹の翳に隠れてゐる自分に氣の付いた時、漸く意識を取り戻したやうに思ふ。丁度私が私の意識を取り戻した瞬間、私はもう一つのことにも氣が付いた。どうやら、弾んだ聲の片方は桂子らしいのだ。しかし、もう片方の聲には全く聞き覚へが無かつた。その時の私には、更にもう一つ氣の付いたことがあつた。どうやら、私はその聞き慣れぬ聲の主に些かの嫉妬心を抱いてゐたのだ。
 一體桂子さんは誰と一緒にゐるのだらう……。偶然散歩の途中で出會つたといふ風にあの二人組と行き會ふことが出来れば良かつたのだらうが、しかし、私は何故だか木蔭に隠れてしまつてゐる……。この嫉妬心を自らの内部に押し留めるやう、自分の存在もをこの森の中へと隱し込んでしまへばいいのだらう。かうして、ここでぢつとしてゐれば好いのだ。
 私の屈み込んでゐるそのすぐ傍を桂子と見知らぬ男性とは、そつと通り抜けたやうだったから、私はこつそりとその二人を盗み見ようと試みた。しかし、丁度その時、桂子はこちらを振り返つてしまつた……。その時桂子は私を咎めるかのやうに一瞬鋭い眼付きになつて、さうして直ぐに私を赦すかのやうに微笑んだのだつた。

それから暫くの間、私は自分の家に籠りがちになつてしまつた。時折、仕事の用事で尠い客が訪ねてくるばかりで、私は単調な日々の中へと再び歸つたのだつた。
 私は昔の思ひ出を思ひ出してゐた。私が子供の頃の或る日、母が怪我をして飛べなくなつてしまつた小さな雀を拾つてきたことがあつた。私と幼い弟とは忽ちその小さなお友達の虜となつて、毎日その雀のために蚯蚓やら芋虫やらを用意したり、肩の上に乗せて自慢気に歩いてみたりするのだつた。さうして数週間が經ち、雀の怪我が癒えたから、私達は悲しみながらもその雀を外へ出してやつた。さうして、私は学校へ出かけた……。家へ歸つてみると、ヴエランダに冷たくなつた雀が倒れてゐた……。その雀は恐らく、私達になついてゐて、私達の家を自らの家だと思ひ込んでゐたのだらう。
 私はその雀を自分と準えて考へてみたが、……私もまたあの桂子の住まふ家に愛着を感じてゐるのだが、しかし雀とは違ひ自分の中の疚しい思ひ、惨めでちつぽけな自尊心の所為でかうして一人、ぢつと隱れて暮らしてゐる……。つまりは、それが人間といふ生き物なのだらうか。私にはさう思へてならないのだつた。
 また、私はこのやうなことをも考へてみた……。
 實は私は様々の悪事を沢山働いてゐて、さうしてそれらがいつか私へ向かつて一斉にしつぺ返しを食らわすのぢやないだらうか……? さう考へると私には全てが恐ろしく思へるのだつた。
 ああ永遠の戀人、私のもとを去つて行つた少女よ……、あなたは今一體何処で何をしてゐるのだらう? 私は今もこんなにもあなたを思つてゐるのだよ……。ああ、それだのに、自分の悲しい空想の具現化によつてすつかり酔つ払つてしまつた私は……、その新しいヒロインに些か惚れ込んでしまつたのだが……、しかし私はその新しいヒロインの中にさへあなたの似姿を見出して、さうして益々あなたへの思慕を靭めてゐるのだよ……。私は昔もあなたを通して神々しい物を愛してゐた、つまり今の私は桂子の中にあなたの姿を見てはその姿を神の似姿のやうに思ひ、さうしてそれを通じて永遠の女神への信仰を抱いてゐるのだらう……。

無題

無題 最愛の少女に

 僕はこのまま惨めに生き永らえるのが怖くてならない。
 人はいずれ死ぬ。しかし遺された者が彼を思い出す限りに於いて未だ彼は生きている。そうして誰も彼を思い出さなくなった時、その存在は決定的な死を迎える……。
 僕は決して人に忘れられたくない。いっそみんなが僕の死を悼んでくれる裡に……。
 結局僕などは最も弱い部類の人間だろう。僕の弱さを赦してくれ。そうして少しでも、僕を愛してくれ……。

【三年前 Ⅰ】

 あれはいつのことだったろうか、僕と彼女とが出会ったのは。それは確か桜の季節、文芸部の部室でのことだった筈だ。数人の学生がそこに屯していて、彼女は確か端っこに腰を下ろしていたっけ。彼女は義理からか友人に付き添って来たというだけで特に話に入ろうとはせず、教室の外に咲き誇る染井吉野を眺めていた。その彼女の秀でた横顔に僕はこっそりと見惚れていた。だから彼女は僕の視線を痛いほどその頬に感じていたことだろう。
 僕と彼女とが知り合いになったのはそのほんの数十分前の事だった。その日、僕は退屈な授業をsabotageして部室に忍び込み、図書館から数カ月前に借りたまま返却を拒否し続けているラディゲの小説を読み耽っていた、自分の魂が持つ悪徳、利己主義をその小説になぞらえながら。
 僕はその時自分よりも若く成功し、そして死んだ天才を羨み、彼の才能の極僅かをでも偸むことでフランス心理小説の手法を取り込んで、自らの内部へ伝統を持とうとしていた。しかし僕が心理小説を書く為には矢張り経験が必要だった、僕は未だ燃えるような恋を知らず、従って自分の魂が燃え尽きてしまうほどの熱量でもって人を愛し、その愛によって自己の全てが変革して何か自分以上の存在へまで魂を高めるような作用を持つ本物の感情の中を生きたことがなかったから。しかし、そういう経験は自分の意志のみで行い得るものではないだろう。お互いが惹かれ合い、お互いによって作られていく愛がキューピッドによって齎されるのを僕は純粋に願っていた。
 暫く経って僕は些かの疲れと頭痛とを確かに認識しながらそれを少しでも癒そうと考え、外の空気を吸いにヴェランダへ出た。まだ何処か肌寒いような四月の風が気持良いくらいで、僕は室内から適当な椅子をヴェランダへと運ぶとそれに腰掛けて煙草に火を点け、牧歌的な風景を目掛けて煙を吐き出した。青白い煙が一瞬の間僕の周りを漂い、そうして虚空へと吸い込まれて消えて行った。僕はその調子で暫く過ごすことで灰皿を吸殻でいっぱいにし、それと比例してポケットの煙草は減って行って途中で煙草が尽きた。僕は情緒の崩れるのを感じ、むしゃくしゃしながらも煙草を購いに出掛けようとしてその為の身支度を始めた。と、丁度その時、部室のドアーがノックされた。
 ――すみません。あのう、誰かいらっしゃいます……?
 それは澄み切った声で、その喋り方には春先のような温もりがあった。
 ――ええ、居ますよ。今開けます。
 僕が急いで身支度を整えてドアーを開けると、そこには僕と余り背丈の変わらない痩せぎすの女性が慎ましく立っていた。
 ――急に訪ねてしまってすみません。友人の伊東さんに誘われまして……。あなたは河野さん? 伊東さんが、友人の河野さんて方がいるから先に行っているようにと。
 ――ああ、そうです。伊東に誘われたんですか。しかし済まないんですが僕は今から少し出掛けるんです、と僕は言った。好かったらゆっくりしていって下さい、直き伊東も来るんでしょう? さあ、掛けてください。
 そうして僕は返辞も待たずに近くの煙草屋へと走った、胸の高鳴りをその所為にし、誤魔化すかのように……。

 僕が部室に戻ると彼女がそれを迎えた。
 ――いや、すみませんね。お茶をでも淹れましょうか。
 僕は言うが早いか準備を始めた。彼女はそれを静かに座って眺めており、僕はそんな彼女を時々網膜に焼き付けるように偸み見てはそれを確かに自分のものにしていた。僕がお菓子等を彼女の前に置く度に、はにかんであどけなく笑みを見せた。そうして、慎ましいティータイムの準備を終えた僕と彼女とは差し向かいになって話を始めた。
 ――時に、君はどういうものを読むんです?
 ――私、小説は余り読まないんです。家にあるのは画集ばっかしなの。
 文芸部には絵描きも数人いるから、それで彼女は誘われて、そうしてやって来たのだろうと推察された。先輩達が残していった蔵書の中には画集も決して尠くはない。
 ――じゃあ、絵描きって訣ですか、いいなあ。好きな画家は誰です?
 ――ローランサンムンクです。
 ――確か画集がある筈だから、取って来ましょう。ローランサンムンクと、ね……。
 僕は移動梯子を使って埃の積もった本棚を必死に探索し始め、その間に彼女は使用した食器類を片付けた。やっとのことで本を探し出すと僕はヴェランダに出て本に付着していた埃を叩き落とすとそれらを机に置き、見易いようにと彼女の隣の椅子へ腰掛けた。
 偶然部室にあった二冊ともを彼女は所有していて、慣れた手付きで頁を繰って自らのお気に入りの絵画を僕に見せてくれた。
 ローランサンは決して僕の好みでは無かったが、夢見がちな少女の面影を心に残しているという印象を僕へ与え、彼女に対する憧れは亢まった。彼女はムンクの画集からは『月光』と『太陽』とを拾い上げた。彼女は矢張り、美しいものを見ようとしているのだろう。僕にとってもムンクは特別な画家だったから幾らか魂の共通性の片鱗を感じはしたが、僕が特に好きなのは『叫び』、『不安』、『病める少女』、『思春期』等の鑑賞者をして実存的不安を喚起させるような絵だった。そこにこそ、その懊悩にこそ生の根源、藝術の秘密、絶望、孤独などの藝術を藝術たらしめるものがあるのだと僕は信じていた。勿論、『月光』、『太陽』などの印象的な風景画も僕は好きだった。いや、僕は彼女に惹かれて、そうしてそれらの絵にも好意を抱くようになったのかも知れない、月光が湖面にその美しい光を投げかけ、鬱蒼とした湖面がそれを受け容れるあの絵のように……。
 僕らの友情の萌芽はそれで充分だった。僕らはその後快い沈黙に支配され、お互いが画集へ視線を投げていた。時々、焦れったくなった僕が彼女の方に眼を向けると、まるで示し合わせたように二人の眼差しが交わるのだった。そうして二人はお互いに笑みを浮かべる……、それはとても僕の愛し方の気に入るものだった。春の日差しは暖かく、まるで彼女はそれを運んで来た妖精のようだな、などと僕は心の中で呟いた。
 終業のチャイムが鳴り響き、教室を抜け出した学生たちの足音が聞こえて来るや、僕はその音を恐怖した。もう彼女の方に眼をやっても応えてはくれなかった。足音が僕らの部室の前で止まり、掛かっていない鍵をがちゃがちゃやる音が聞こえた。
 その瞬間、急に彼女は顔を上げて美しい眼で僕を真っ直ぐに見詰めた。頸の真ん中辺りで切り揃えられた素直な髪の毛が揺れてその香りが僕を誘惑した。
 ――すみません……、私ったら、言い忘れていたみたい……、私はM…と言います。
 彼女は怖ず怖ずと手を差し伸べ、僕はそれに応えた。ドアの開く音がして、それに驚いたように僕らは手を離した。そうして、努めて何も無かったかのように僕はヴェランダに戻って煙草を吸い、彼女は画集を食い入るように見詰めた。やって来た部員達の中には伊東もいて、彼は彼女を皆に紹介し始めたが、僕は強いて無関心を装いながら煙草の煙を吐き出し続けた。
 暫くすると部員達は自分の作品制作に取り掛かるなり、勉学に励むなりを各々好き勝手に始めた。彼女は一人ぼんやりと、憂いを湛えたような表情でヴェランダの直ぐ傍の桜を眺めており、僕は彼女の眼を、美しいものを見つめる眼を通して様々のものを見ているかのように考え、崇高な気持で桜を眺めた。すると心が洗われるような眩暈が僕を捉え、その快さを味わいながら僕は時々彼女の横顔を惚けたように見詰めては、僕の内部に出来したこの温かな幸福の予兆を大切に靭め続けた。

【三月二十六日 及び回想(冬Ⅰ)】

 伊東真一がその報せを受けたのは自然の生命たちの少しずつその精神を萌芽させていこうとする姿の散見される暖かい初春の日のことだった。彼は大学の第三学年を終えたところで、親戚を頼って都会を少し離れた小さな山村に暮らしながら机に向かっては自らの才能を証しようと試みたり、或いはその近辺に詳しい従姉妹の冬子に案内を乞うては近所を散歩したりと、割とゆとりのある気楽な生活を送っていた。
 彼はいつも通りに晩い目覚めを目覚めると、枕元の煙草ケースから一本抜いて吸い、割り当てられた部屋の窓を開いて天気を確認した後階下へ降りた。台所では黒い厚手のワンピースの上にクリーム色のカーディガンを羽織った冬子が洗い物をしており、彼女の母である伯母はダイニングテーブルに本を置いて読書をしていた。二人は既にお昼を食べ終えて午後のひと時を過ごしていたらしく何か話をしていたが、彼の姿を認めると眼を見合わせて彼へ笑みを送った。
「真一さんは相変わらず起きるのが晩いのね、」と伯母が声を掛けた。
「すみません、昨晩もよく眠れなくって。」
「おはよう、」と冬子は利発に笑んで言い、お皿を洗う手を止めて両手をエプロンの裾で拭いながら、「晩くまでお勉強?」と戯談をでも言うような口調で続けた。
「どうだろうね、」と返し、彼は顔を洗うためにダイニングを去って洗面所へ向かった。
 蛇口を捻って手でお椀を作り、その中へ冷水を溜めると彼は一思いにそれを自らの顔へぶつけた。既に起床して暫く経っているから意識は大分明瞭としていたが、それの一層研ぎ澄まされることが彼には感じられた。そうして顔をタオルで拭うと再び部屋へ戻り、伯父から貸し与えられた彼には少し大き過ぎる寝間着を脱いで、伯母によって洗濯された清潔な白いシャツに袖を通し、その胸ポケットへ煙草を突っ込むと蒲団の傍へ投げ出されている黒いスラックスを履き、冷えた足先を靴下で包み、煙草を咥えながら階下へ降りた。
 この家には台所に面して居間があって、南向きの掃き出し窓からの陽光が差し込み、その窓と垂直になるよう一組のソファが長方形の座卓を挟んで向い合うように並べられている。伯母は窓辺へ座布団を運んでそこに腰を下ろし、レースのカーテンを透かして入り込む日差しをその背に受けながら本へ視線を落としており、冬子は伯母から見て左側のソファを占めて眼を閉じていたが、彼の戻ったのを認めると台所へ移動しておかずを温め始めた。で、彼は彼女に附き従ってダイニングテーブルの椅子を引くとそこへ腰を下ろした。そうして女性らしく成長している冬子の後姿を眺めながら、その家庭的な情緒が自らを癒していくように感じた。料理を温め終えると冬子はそれらを丁寧に盛り付けて、一皿一皿と彼の前へ並べた。
「今日の冬ちゃんの手料理はどれ?」と彼は訊いた。
 数種類のおかずのうち一つは冬子が作る、という決まりがこの家にはあった、彼女は大学進学を控えており、この春休みが親元で過す最後の休暇ということで伯母から大いにしごかれていたから。
「一番美味しいのがそうよ、」と冬子は笑んで答えた。
 伯母と冬子との話し声を聞きながら彼は両手を合わせた後食事を認め始めた。彼女の作るものは大抵自らの好物だということに彼は気付いていたから、今回もどれが冬子のお手製かは直ぐに見当が付いた。
きんぴらごぼうじゃない? 冬ちゃんの作ったの、」と彼は声を掛けた。
「ご名答、」と彼女は笑んで言い、身を翻すように台所を出て行った。
 彼女の階段を駆け上る音の快活な印象を反芻しながら彼は食事を終え、食器をシンクの盥へ沈めると居間へ移動して先程冬子の座っていたソファへ腰を下ろした。彼は食事を終えた後に冬子を伴って散歩に出る習慣を持っていたから、ポケットから煙草を取り出してそれを喫みながら彼女を待った。
「真一さんが来てから、あの子は大分明るくなったようですよ、」と伯母が冷やかすように言った。
 彼は余計なお節介を言われたように感じ、煙草を一吸いすると煙を吐き出しながら、
「来年度から晴れて大学生だし、自由を謳歌するような気分になっている所為じゃないですかね、」と返した。
「そうかしらね、」と言って伯母は笑った。
 この伯母はフランス小説にでも出てくるような、お節介で朗らかな愛すべき夫人の典型とでもいうべきタイプの女性だった。歳のせいか幾らか体つきはふくよかになっているものの未だ美しく、その動作、立ち振舞には少女時代の名残とも言えるような花々しさがあったし、冬子と共通する好ましいものを伯母の挙動の隅々から捉えることが出来た。彼は彼女を、アンドレ・ジイドの『狭き門』に登場するリュシル・ビュコランとフェリシー・ブランティエとのアマルガムのようだな、と考えていた。さしずめ冬子はジュリエットの方だろう……。
 彼が二本目の煙草に火を点けた丁度その時、着替えを終えた冬子が戻って来た。彼女は外へ出ることを見越して黒色のストッキングを履き、灰色の大きなロングコートを羽織り、首には赤いマフラーを巻いていた。そうしてその手には彼のピーコートを持っていた。
「ありがとう、」と彼は言い、「これを吸い終えたら行こうか、」と煙草を持った右手を少し持ち上げて続けた。
 冬子は無言で諒解の意を示すと彼にコートを渡してそのまま右隣に腰掛けた。彼は強いて素知らぬ顔で彼女のいない方を、つまり台所の方を向いて煙草を吸い続けながら冬子の身体によって伯母から見えないのをいいことにその左手へ自分の右手を重ねた。彼女はその手を逃れようと自らの手を引っ込めようとしたが彼はそれを許さなかった。
「今日はお天気だから、普段は行かない方へ行ってみたいな、」と彼は落ち着いて言った。「少し歩いてO…池の方まで行ってみない?」
 彼が返辞を催促するようにそちらを見ると冬子は顔を赧らめながら静かに頷いた。それは全的な従順を意味するように彼には思えた。で、彼は煙草を卓上の灰皿へ押し付けて消すと、立ち上がってコートを羽織り、
「行こう、」と声を掛けて玄関へ向かった、後ろから聞こえた伯母の「行ってらっしゃい、」という声が自分を咎めるようにも、また自らを応援するようにも感じながら。
 雲一つ無い小春日和の陽気はまるで自然が彼らを迎え入れているようだった。彼はコートのポケットへ両手を突っ込みながら冬子に歩調を合わせて歩みを進めた。O…池までは国道を通れば十分ほどで到着することが出来るが、彼はその倍ほどの時間が掛かる雑木林を抜ける道を選んだ。見咎められる心配のない林の中だからか、冬子は彼へその身を擦り寄せるようにしていた。二人は無言で歩き続けたから時折枯れ木の踏まれて折れる乾いた音が寂しく鳴るきりだった。不意と頭上に茂る樹々が開けて暖かな陽の光が差し込み、彼の胸中に強烈な多幸感が出来した。可愛らしく小鳥が囀り、初春の緑色の風が吹き渡り、遠くの方からの森林の騒めきが僕らを目掛けて木魂する、……この調和は僕にとってどれほど愛するに価するものだろう。
 漸く小さな池の畔に辿り着くと彼らは四阿へ入った。その四阿は池に面して入口を持っており、その中心に据えられた柱を包む正方形のベンチが備えられていたから、彼は池を眺めることの出来る部分を占め、冬子はその左隣に腰を下ろした。鯉か何かがその身を燦めかして水面へ浮かび上がっては波紋を広げるのを見詰めながら彼は煙草に火を点けた。そうしてそれを喫みつつ、冬子の秀でた横顔を見遣った。と、その瞬間、再びあの愛おしい程の調和が、それへの純粋な陶酔が彼には意識され、この名状し難い多幸感は一人の美しい少女に負っているのだということを理解した。
 「待て……この味わい……もうそれは逃げてゆく ……それは僅かな音楽、ただ一度の足踏み、一節の口遊む歌――君たち温かなる乙女らよ、物言わぬ乙女らよ 踊るがよい 味わい知った果実の味を!」というリルケの詩の一部分を彼は想起し、それを大事に保持し持続させることを誓った。
 不意と冬子が立ち上がって池の背面に小高く盛り上がった小山の方へ歩き出したから彼もそれに倣った。簡素な木枠で作られた段を上ると直ぐに開けた空間へ出ることが出来、そこには三メートルほどの巨大な、苔生した石碑が建てられていた。
「冬ちゃん、この石碑が何だか知っている?」と彼は訊ねた。
 冬子は唇に手を遣って少し逡巡した後、
「分らない、」と答えた。「ずっと昔からあるんでしょうけど、……玄蕃之丞をでも祀ってあるのじゃないかしら?」
「何? その玄蕃之丞というのは。」
「狐よ。悪戯好きの狐で、人を化かして回っていたって話、知らない?」
「知らないな、この辺りに伝わる民話?」
「ええ。汽車に化けて人を脅かしたり、大名行列に化けて道を往来したり、そんな話を昔聞いたわ。それで街の人達は本物の大名行列をいつもの悪戯だと思って無視しちゃったせいで大目玉を食らったんですって。」
「面白いね、他にもあるの?」
「ええ、何でも玄蕃之丞の恋物語というのもあるそうよ。」
恋物語ねえ、生意気な狐だね、」と彼は言い、彼女の眼を見詰めて「冬ちゃんはどうなの?」と続けた。
「内緒、」と彼女は赧くなって言った。
 冬子は丘を下る階段の方へ向かって一歩目を踏み出した。内部に出来した幸福の持続が終りに向かうのを彼は意識し、冬子へ近付いてそっとその左手を取った。それは冷たく、すべすべしていた。何か決定的な、夢想を現実へまで亢める行為を試みなければ、と彼は考えた。
「駄目、さっきも真一兄さんそんなことをしたけど、お母さんに怒られる。」
「ここならばれやしないさ、」と言って、彼は辺りを眺め回した。そこには石碑とその背景に美しい白樺が静かに林立するだけだった。
「駄目?」と彼は訊いた。
 冬子は肯おうとする素振りを見せはしなかったが、彼は距離を詰めると自らの唇を彼女の瑞々しい野苺のような唇へ重ねた。
 彼は改めて彼女の顔を凝視した。美しい黒髪が枝垂れ、それに縁取られながら全体的に小作りで華奢な鼻や唇やが収まり、安らかに両の瞳は閉じられて、長い睫毛は微かに戦きながら朱に染まった頬へ影を落としている……。
「私、こんなことしたの、初めて、」と冬子は掠れるような小声で呟いた。
 彼には、……僕は初めてじゃない、という意識が内部を垂直に降下するのが感じられた。
「真一兄さんは私のことを好き?」と冬子は彼の両目を覗き込んで言った。
「ああ、僕は冬ちゃんが好きだよ、」と答えた。「随分前からね。」
 二人は昔話に花を咲かせながら家への道を歩き始め、彼はその道すがらに彼女の手を取ったが、「人に見られちゃう、」と一蹴された。幾らか気不味い思いをしたものの、それはその仲をぎこちなくする程ではなく、彼らは戯談を言い合いながら家の玄関へまで至った。
 二人の帰った時に丁度時計が三時の鐘を打ったから、手仕事をしていた伯母はその手を止めてティータイムの準備を始めた。冬子も伯母に倣ってお勝手へ行き、数分の後にお盆に紅茶とクッキーとを載せて居間へ戻るとそれらを卓上へ置いた。居間の入り口から見て左側のソファに伯母と冬子とが腰を下ろし、彼は座卓を挟んで対面にあるソファを占めた。
「真一兄さん、大学の話をして、」と冬子はクッキーを手に取った後、瞳を輝かしながら彼に甘えたような言葉遣いでせがんだ。
「またか、」と彼はぶっきら棒に言い、「もう散々話したのに、」と続けた。
 その二人の様子を伯母は静かな優しい瞳で見詰めていたから、彼は渋々と口を開いた。
「大学の話ね、何を、どんなことを聞きたいの?」
「何でも、」と目を輝かせて冬子は言った。
「じゃあ、大学の一日をでも話そうかな。何曜日がいい?」
「月曜日。」
「月曜日ね、金曜日は僕大学へ行かないんだよ。」
「じゃあ、火曜日。」
「火曜日か、……月曜日も休みなんだよ、」と言って彼は笑んだ。
 冬子と伯母とが一緒になって笑った。
「真一兄さんは、ずいぶん怠けているのね、」と冬子が言った。
「いや、冬ちゃんが僕の休みの日ばかりを選ぶからいけない、」と彼はむきになって言った。「大抵の日は真面目に大学へ行っているよ、水曜日なんかは朝から晩までだ、」と彼は話し始め、「まず一限はフランス語でね、語学は一二年生の裡に取っておくべきなんだけど、僕は落とした、」と言って二人を笑わせた。
「やっぱり不真面目なんでしょう?」と冬子がからかうように言った。
「いや真面目だよ。二限は哲学研究をやって、お昼を挟んで午後は二時限続きのゼミがある、これでもう十六時だね、その後は文学同人の寄り合いがあるから部室棟に缶詰だよ。早くても二十二時に帰れたら好い方さ。」
「その同人では何をしているの?」
「良い質問だね、」と彼は言った。「野心的な文学青年が集って、熱心に麻雀をしているよ。」
「やっぱり不真面目だわ、遊んでばかり、」と冬子は笑った。
 と、不意に居間の片隅に据えられている黒電話がけたたましく鳴り響いた。直ぐ様伯母が受話器を取って話を始めたが、それは全く彼女の見知らぬ相手からの電話だったらしく、一種不穏な空気が広がった。
「真一ですね、少々お待ちください、」と言って伯母は不思議そうに彼を見詰めながら、「女の方から、何でも急ぎの用事だそうよ、」と受話器を渡した。
「お電話変わりました、伊東です、」と彼は電話に出た。
「もしもし? 伊東さん?」という女性の声が不気味な印象を帯びながら彼の耳へ飛び込んで来た。
「ええ、」と答えながら彼は瞬時に、通話相手に当たりを付けようと先程の声を反芻した。
「私、松枝木綿子です。」
「ああ、松枝さんですか、ご無沙汰しています、あれ以来、」
「河野さんが亡くなりました、自殺でした、」と彼の言葉を遮って彼女は言った。
 彼にはその言葉が余りにも鮮明に聞こえた。その瞬間、彼の心臓は規則的な脈を外れて打った、辺りが水を打ったように静まり返った、会話を聞いていない筈の伯母と冬子ともそれを直感的に把握したように思えた、河野の死、それは一つの動かし得ない、既に決定された事実だ、と幾度も心の中で繰り返した。居間の壁掛け時計の時を刻む音が不意と聞こえて、彼は意識を取り戻した。
「死んだんですか、」という、まるで自分のものじゃないように感じられる乾いた声を彼は聞いた。
「ええ、それで、」と彼女の言い掛けたのを、
「今直ぐ帰ります、」と今度は彼が遮った。「兎に角今直ぐ帰ります、どこへ行けばいいですか? 三時間もあれば東京へは着けます。」
 時計を見るとその針は午後四時を指していた。
「私は今河野さんのご実家にいるんですが、」と彼女は言った。「お通夜はこの家の直ぐ傍の斎場で行われます、十九時からです。」
 随分急だな、と彼は一瞬思ったが、直ぐにそれは当然であることと、しかも河野の親族としてはきっと自殺ということから葬儀を早々と終えてしまいたいのだろうこととが意識された。
「場所を知っているのなら河野さんのご実家の方へ来て下さい。その直ぐ傍のH…というところで葬儀は行われます。」
「分りました、急いで向かいます。じゃあ後で。」
 電話を切って彼は伯母と冬子とを順々に見遣った。彼女らは何か恐ろしいものをでも見たような瞳で彼を見返した。
「河野が、僕の友人が死んだ、」と言った。
 彼にはそれが相変わらず自分の声じゃないように感じられた。二人は無言のままで、それは彼からの言葉を待っているように思えた。彼は一つ息を吐くと、
「僕今直ぐ帰ります、すみませんが伯父さんによろしくお伝え下さい、」と言った。
 彼は二階へ駆け上がり、旅行鞄へ本やノオトやを乱暴に詰め込み始めた。それを終えると彼は鞄を閉めようとしたが何故だか上手く行かなかった。不意と人の気配を感じて振り返ると、いつの間にか冬子が傍へ立って静かに彼を見下ろしていた。その時突然彼は、彼女の視点を借りて自らを見詰めているような離人症的の気分に襲われた。で、自分の手が異様に震えているのに気付いた。彼は自らを落ち着かせようと考えて煙草を吸おうと試みたが、手が震え続けている所為で煙草へ火を点けることさえ能わなかった。暫く格闘して漸く火を点けることが出来たが、その行為は堪らなく不謹慎なものに思えた。後ろめたさを感じながらも彼は煙草を喫み続けたが、しかし堪らなく不安だった。惨めな姿を、彼は再び冬子の眼を借りて見ているように感じた。僕を、更には彼女もを、河野の死が支配している、と彼は考えた。僕はいつしか自分と彼女とを一種俯瞰的な視点から見下ろしているように感じているが、それは河野の眼が僕らを見詰めているからだ。今や僕には全てが理解出来るような気がする……。
 煙草の灰がズボンの上へ優しく落ちた。気付けば火は煙草を半分ほど焼いたところで消えていた。手の震えは止まっていた。が、震えの去るのと共に、彼の気力も去ってしまっていた。そうして空虚が彼を襲った。彼は、一緒に夢を見ていた河野は、僕を置いて一足先にその夢の不可能性に気付いて全てを諦めたのじゃないか、自分もこの先夢を追い続けたところで彼の後を追う結果にしかならないのじゃないか、と考えた。いや、それは最早結論だ、河野の死によって証される一つの真理だ。河野の死は僕から河野と僕の夢とを奪ったのだ。戦場で親友を失った青年兵士の悲哀の慟哭を、そうして身近に横たわるその死体の与える絶望とその恐怖と、その幻影を彼は見た。それは鮮烈な印象だった。ああ、その死は僕の前にも横たわっている。河野の死体は未来の僕だ。しかし、しかし、しかし。
「河野が死んだ、」と自分がぽつりと呟いたのを彼は再び聞いた。
 冬子が傍に寄って彼の手を取った。彼は彼女の柔らかな手を握りながら、彼女の手か自らの手かのどちらかが、或いはその両方が震えているのを感じた。
「私も附いて行く、」と冬子が言った。
「どうして?」
「真一兄さんずっと、僕は死ぬ、と繰り返していたから、心配で……。私絶対に附いて行くから。準備をして来るね。」
 言うが早いか冬子はその身を軽やかに翻し、小気味の好い足音をリズミカルに響かせながら階段を降りて行った。その印象が彼の意識を幾らか正常な方へ戻した。彼女は生きている、と彼は考えた。河野の死に彼女もまた包まれているように感じたのは錯覚だ、彼女は生きている……、そうして僕も生きなくてはならない……。
 彼は無事鞄の留め具を掛けた後、煙草を一本吸った。そうしてコートを羽織り、マフラーを巻くと鞄を抱えて一階へ降りた。既に冬子はコートに身を包み、その手には旅行用のバッグを持って彼を待っていた。彼女は母へ自らの意志を諒解させてあったようで、そこからはとんとん拍子にことが進んだ。電車の時刻を調べた後、伯母の運転で彼らは最寄りの駅へ至り、そこで数分待って電車へ乗り込んだ。田舎故だろう、電車は空いていたから、彼と彼女とはボックスシートを向かい合って占め、彼は自分と彼女との荷物を網棚に上げると河野晶についての様々のことを回想し始めた……。

  ……河野晶、僕の親友――僕と河野とは高校時代からの友人で、その在学中から共通の夢に情熱を捧げて友情を築いた仲だった。だから自然と卒業後は同じ大学へ進学し、そこで文学同人を立ち上げて青春の狂騒の中で夢の続きを見ていたのだが、河野は彼なりの理由から他大学へと去って行った。彼の編入先の大学は僕の下宿の最寄り駅と近かったから、僕は彼を訪う為に屡々彼の通う大学のキャンパスへ足を運んだ。

 ……最後に彼と会ったのは春休みの始まる直前の頃だった。
 その日も僕は少しの居心地の悪さを感じながら、河野の所属している学科の棟の一階にある学生ラウンジに佇んで、彼が試験を終えるのを待っていた。暫くして河野が一人の女学生を伴って談笑しながら階段を下りて来るのを僕は認めた。それと同時に彼もまた僕を認めて、
 ――やあ、と声を掛けた。
 ――お疲れ様、と僕は言い、そちらの女性は? と尋ねた。
 ――ああ、こちら同級生の松枝木綿子さん、と河野はその女学生を僕へ紹介した。
 松枝さんは僕に向かって軽く頭を下げた。穏やかな瞳の光が煌き、黒髪の結われた三つ編みが揺れた。僕は彼女のその眼を見遣って、
 ――どうも、僕、河野の友人の伊東です、と挨拶した。
 河野が「ちょっと煙草でも吸って待っていてくれないか? 直ぐ行くよ、」と小声で僕へ囁いたから僕は松枝さんへ黙礼をした後にその棟を出た。煙草を吹かしながら入り口脇に設えられたベンチに腰を下ろして何するでもなく構内の様子を眺めていると、河野が松枝さんと仲睦まじそうに校門を目指して歩いて行く姿が眼に入った。河野の普段の歩調は大分早いものだったが、彼は傍らの女性を慮って強いてゆっくりと歩いているようで、その長い脚をぎこちなく動かし、そうして時折屈むようにして何かを話し掛ける様は見る者を微笑ませるくらいだった。二人は校門に至っても別れを惜しむように幾らか言葉を交わしていたが、不意と松枝さんは腕時計をちらと見遣った後河野へ頭を下げると去って行った。河野は先程とは打って変わったような早足で僕の元へ来て、肩に掛けた鞄から煙草を取り出すとそれに火を点けて美味そうに喫んだ。そうして、
 ――欅の冬枯れだね、と構内の通り沿いに植えられた樹々を見詰めて言った。なんだか怖いよ。
 僕も河野に倣って欅を見詰めた。それらは葉の落ちた寒々しい枝々を天へと伸ばして、冬の景色の中で夥しい程に立ち並んでいた。
 ――寂しいね、と僕は言った。あれは、ああやって枝を次々に分裂させていくのは、多く陽の光を受けて、沢山の葉を光合成させるためなのかな。よく出来ているね。
 ――きっとそうなのじゃないかな。僕には怖いよ。樹も必死になって生きようとしているんだね、藻掻いているんだねえ。植物的な生、というとなんだか穏やかな、静的なものに思えるけどきっとそんなことはないのじゃないかな。佐藤春夫の『田園の憂鬱』にもそういうことが確か書いてあったね。あれは夏だったね。
 ――おお、欅、汝病めり! とでもいった感じかな。
 ――そうだよ、あんなになってまで生きようと藻掻いているんだから恐ろしいよ、病んでいるよ。
 不意と二人の間に沈黙が落ちた。僕らの仲では普段はそんなこと気にならないのだが、この時ばかりはそれが気詰まりに思えた。僕は強いてそれを取り払おうと考えて、
 ――君は、この春休みは何処かへ行くの? と訊いた。
 河野は煙草を靴の裏に擦り付けて消すとこちらを見詰めて、
 ――いや特にこれと言って……、と答えた。君は何か考えている?
 ――僕は親戚を頼って田舎でのんびり暮らすつもりだよ。そろそろ本腰を入れて書こうと思うんだ。
 その僕の言葉を聞いて河野は俯いた。そうして、
 ――本腰を入れて、藻掻くんだね、と素っ気なく言った。
 ――君は元気がないように見えるけど、大丈夫? と僕は堪らなくなって尋ねた。
 ――うん、大丈夫。僕も何処かへ出掛けようかな、何処か遠くへ行きたいな。でも僕にはそんな元気もお金もないからね……。
 ――僕と一緒に行かないか? 遠慮することなんか無いんだよ、と僕は河野を誘った。
 暫し逡巡した後に河野は、
 ――ありがたいけどね、僕東京にいることにする、ときっぱり言った。あの娘と会いたいし……、まあ会えるかどうか分らないけどね……。
 ――ああ、と僕は俄に活気付いて言った。付き合っているの?
 河野は返事をする前に煙草に火を点けた。そうしてそれを一度吸ってから、
 ――どうだろうね、未だ清いままだよ、と答えた。そうだ、聞いてくれないか?
 ――うん、聞くよ。
 河野は再び煙草を一吸いして、口を開いた。
 ――彼女に告白した人がいるらしいんだ。仮にS…君としよう。僕それを聞いてから気が気じゃなくってね、どうも僕という男は女々しいね、それから何にも手が付かない。S…君と一緒になる授業があるんだけど……、やり切れないよ。そいつが気になって仕方がない。もし出来るのなら、絞め殺してやりたいくらいなんだ……。
 その時僕は先ず、河野もまた生のために藻掻いているのだ、と感じた。そうして河野は恐らくその己の醜い部分を見るのに耐えられないのだ。それで欅の樹に対してあんなことを言い出したのだろう。
 ――僕は恐ろしいんだ、と河野は尚も続けた。僕はS…君と較べてよっぽど有利だと思う。だって、彼女は僕のためにお菓子を作ってきてくれたりするんだからね。最初はそう考えればこの不安は鎮まると思った。でも違うんだね。次に僕は、きっとS…君もまた僕に対して憎悪を感じている、と考えたんだ……。僕は人に憎まれたくない。でも僕はS…君を憎んでいる。僕は醜い。
 河野の美しい瞳に妖しいような光の湛えられているのを見ながら僕は、
 ――それは……、しょうがないよ、と言った。僕にも覚えがあるな。恋愛っていうのは人を精神錯乱状態へ誘うように思う、狂気のようなものだよ。恋する女性は美しいけどね、女性の嫉妬は可愛いものだ。それは純粋に好意から、独占欲から来る。でも恋する男は醜いね、男の場合はその女性を、……孕ませて……、そういうことだと思うね。つまりなんて言うか、男は生物学的に考えて子孫を作るために女性を求めるんじゃないかな。女性を肉体的に所有するために愛したりするのじゃないかな。悍しいね。で、そう考えた場合他の雄の接近は全力を上げて阻止すべきだし、憎んで当たり前だと思うよ……。
 ――僕はね、人を愛することで、まあ僕に人を愛することが出来るかは不問にしてくれ、人を愛することで、自分の中の善意志が出来して、それによって清く生きられるように思っていたんだ。愛する人がいるのなら、人は決して殺人や姦淫や自殺や、兎に角全ての悪を犯し得ないと思っていた。愛が人の善意志を靭めてくれる筈なのに……。
 煙草を灰皿へ投げるように捨てて大学の門を出ると、大学から駅までの大通りは人混みが凄かったから僕と河野とは顔を見合わせた後、どちらともなく裏通りの方へ足を進めた。その路地を西日が照らして様々の影絵が壁に磔になりながら黄昏の憂愁を湛えていたが、しかし夕食の温かいような香りがどこからか流れてきて、そのノスタルジーが僕らを慰めるようでもあった。それは学生の屯する居酒屋から発せられているようで、店からは間断無く賑やかな笑い声が響いていた。と、不意にその中から一匹の猫が現れたが、しかし僕らを認めるや直ぐ様逃げ去った。
 ――猫……、と河野が言った。
 ――飼い猫なのかな、君は猫を好きなの? と問うて僕は河野の瞳を見詰めた。
 ――別に、と素っ気なく返すと河野は財布を取り出して中身を調べ始めた。
 僕は何ともなしに店の方を眺めながら、懐から煙草を取り出した。
 ――寄って行かない? ほら、春休みで暫く会わないんだし、ちょっと話そうよ。
 僕は取り出した煙草を仕舞い込んで、
 ――うん、好いね、と和した。
 暖簾を潜ると人の良さそうなおばさんの店員が駆けて来て人数などを確認した後、僕らを隅のお座敷へ案内した。四人用の座卓の上座を河野が占め、僕はその対面に腰を下ろし、それぞれ荷物を下ろして早速煙草に火を点けた。先程の店員がやって来てお絞りとお冷とを机に置いてお決まりの文句を言うと立ち去った。店内は大いに混み合っており、僕らと同じような理由からこの店に来たというような学生たちが多かった。が、ちらほらとサラリーマン風の人々もを散見することが出来、僕は不意と今日が金曜日だということを思い出して、
 ――花金か、と声に出した。道理で混んでいる訣だね。
 ――そうね、取り敢えず何か頼もうか。
 河野は煙草を一度灰皿へ置いてからメニューを取ると、僕にも見えるよう横向きにそれを開いた。そこには代わり映えのしないありきたりの料理が並んでいたが、河野は強いて楽しそうにそれを眺めていた。
 僕は店員を呼んで幾つかの食べ物と飲み物とを注文すると新しい煙草に火を点けた。そうやってぼんやりと煙を燻らせている間に飲み物が運ばれて来たから、僕と河野とはお座なりにジョッキ同士を打合せて乾杯をし、一息に飲み干して直ぐ様お代わりを頼んだ。そうして新たに運ばれて来たビールへ口を付けた。そうこうしている間に注文した料理が次々と運ばれて、僕らはそれらを早々に平らげると下らない雑談などを始めた。と、別の席から先程の少女がやって来て、
 ――こんばんは、さっきぶりです、と挨拶をした。河野さんがここへ来るなんて珍しいですね。
 僕が社交辞令的に「少しだけここで飲みませんか?」と言って誘うと、彼女は「お邪魔します、」と言いながら一礼して靴を脱ぎ、それを綺麗に揃えた後に僕らの占めている座敷へ上がって少し逡巡した後河野の隣に腰を下ろした。遠くの方から学生たちによる彼女を冷やかすような声が聞こえ、河野は酒の所為か少し潤んだ眼で声の方を一瞬眺めた。
 ――なんだか気まずいな、君戻りなよ、と河野は素っ気なく言った。
 ――ちょっとくらい良いでしょう、と彼女は怨ずるような科を作って言った。
 僕は河野がこの居酒屋へ入ることを提案したのは、松枝さんに会えることを期待したからなのじゃないかと推察して、二人を冷やかそうかと考えさえしたが結局口を噤むことを選んだ。河野はそのことを気にしてか、
 ――まさかここで木綿子さんと会うとはね、と言った。ところで今日は君だけ?
 彼女は一瞬逡巡した後に、
 ――そうです、私一人じゃご不満? と剣突くを喰わせるように言った。
 ――いやそうじゃない、と河野は慌てて弁解した。君と、須坂さんとは大抵二人セットだからね……。
 漸く僕にも河野の質問に合点がいったから、
 ――いつかの、喫茶店の娘のこと? と訊いた。

【某月某日 Ⅰ】

 河野晶は電車を降りると駅付近の古書店を冷やかし半分に回り始めた、数軒の店を訪っては欲しい本の未だ店頭に並んでいることを確認するのが月曜日の習慣のようなものとなっていたから。で、この日は幸運にも店先の投げ売り籠の中に、真剣に探す程ではないものの既に絶版で普通の店では入手することの能わない本を二冊見付けてそれらを購入した。鞄へ本を押し込み、用の無くなった商店街を抜けて大学の校門を潜ると彼は自分の時計を確認したが、しかしその時計は見当違いの時刻を指して止まっていた。キャンパス内の大時計を仰ぎ見ると彼の出席すべき授業まではまだ充分に時間のあることが確かめられたから、常に人気の尠いことからお気に入りの場所としている構内の奥の方にあるチャペルを目指して歩き始めた。
 その道すがらに彼は、僕らは絶えず時間の流れに乗って前進していくが、精神はそうじゃない、と考えた。精神は停滞もするし後戻りもする。人間は精神である、とキェルケゴールが『死に至る病』の冒頭で宣言しているように矢張り人間とは精神だと僕は思う。そうしてその精神こそが人間の尊厳だ。人は自らの意志でそれを亢めることも出来るし、低めることも出来る。自らの精神を亢め、美しくする為には一つの信仰心、idéeが必要だろう。僕には、人間は何かを信仰していないと生きられないようにすら思える。何かに価値を認めてそうしてそのために生きるような、つまり生のpathosがない限り人間は正しく生き得ないだろう、何の目的もなく生きることは頽廃であり、魂の停滞であるから。だから、生きる上では常にその生を支えるidéeが必要なのだ。生とは常にその生を燃焼させるような情熱をもって生きられるべきだ。少なくとも、青春はそういう風に生きられるべきだ。しかし僕は愛する人を持っていやしない。僕は孤独に、只管この貧しい生を、呪われた生の中で信仰に至ることが出来ず、無闇と藻掻き苦しんでいるだけだ。で、いつしか、苦しみをのみ見詰めようとし始めているように思う。清く生きようと聖書を読めば読む程自らの罪深さが意識され、小説を書こうと偉大な小説を読めば読む程書かれるものの超えるべき水準が上がり、そうして愛すれば愛する程人はその孤独を深める……、つまり僕はすっかり不可能性の虜という訣だが、……苦しみは大事なことだし、生に於いて苦しみは常に噛み締められるべきだろうが、それのみを目的とした生は間違いだろう。僕は苦しみというものはantithèseだと考えている。そう、苦しみとはantithèseであるべきなのだ。美しいものに対するantithèseとしての苦しみのみが尊ばれるべき苦しみだ、それは魂を善へと向ける弁証法に不可欠なものだから。幸福に酔ってしまわぬよう、陶酔のみを生きぬよう、常にそれと共にある苦しみを感じ、理性的に見詰め、それと対峙することで喜びと苦しみとを弁証法的に発展させ、そうして善の方を目指すところに人間の崇高さがあるのだ。だから、生きるためにはどうしても幸福への指針、一つの信仰が必要なのだが……。
 チャペルのドアを開けると思った通りにそこはひっそりと静まり返っていたが、意想外なことに先客があった。それは一人の少女で、彼女は彼の扉を開けた際の音を聴いて一瞬驚いたようにその身を戦慄かせたが、彼が自分の無礼を詫て軽く一礼すると微かに笑みながらそれに返礼した。そうして身を翻して逃げるようにその場を去って行った。
 一体今の少女はどんな人だろう? と彼は考えた。僕は大分以前から時々ここを独り占めしていたが、しかしここで人と会うことは殆ど無かった。あの初々しさから推察するにきっと彼女は新入生じゃないだろうか、僕から見たら下級生であることは確実だろう。ここにいるからにはある程度の信仰心を持っている少女なのじゃないか。もしそうなら……。
 彼は今の出会いの余韻とそれに伴って不意と無関係に閃いた交響曲の初めの旋律とを味わうかのように暫くその場に佇み、先程まで彼女の掛けていた椅子から二席離れたところへ腰を下ろして高い窓から差し込む陽の光にその身を委ねた。

【手記 文学的断片Ⅰ】
 
 小説とは一つの世界であり、それは作者その人の内的世界と外的世界との照応によって浮かび上がる世界である。そうしてその世界は矢張り成立している事柄の総体であるが、その成立というのは小説的成立とでも言うべきもので、それは小説空間に於ける諸事実である。作者が論理空間内から事態を選び取りそれを小説的事実として定着することで小説的事実は成立する。つまり思考し得ることの全てを小説的事実まで亢める権利を作者は有している。その権利を行使しながら、世界を自分なりに論理付け、成立させる孤独の営みがromanを作り上げる。
 小説を小説たらしめるものの一つに時間というものがある。作者の内的世界と外的世界とのcorrespondanceによって形作られた空間が時間を持って動くことで初めて小説は小説になろうとする(無時間的空間は詩である)。小説内を流れる時間には様々のものがある。そうして小説を叙述する際の時間的位置がその小説の性格に大いに影響する。単純に考えて過去を描く場合、現在を描く場合、未来を描く場合、との三つが考えられる。最も採用され得るものは過去を書く場合であり、それは過去という性質上全てが過去時制で書かれる。次に採用され易いのは現在時制によって書かれるもので、未来時制によって書かれる小説というのはその現実感が損なわれる為に使い勝手が悪いように思う。

〈メモ……二十枚分の小説空間を持ちながら十秒の時間をしか描かない小説、例えば二人の男女がA地点からB地点へまで移動する。その際に二人は、あの時の薔薇は未だ咲いている? ええ、咲いています、というような会話をする。そうしてその薔薇についての過去を回想し始めて、その過去によって小説空間は一挙に拡大する。AからBまでの移動には十秒しか掛からないが、しかし二人には過去が重くのしかかっている筈であり、それが描かれる。〉

 ところで先に述べたように小説を小説たらしめるものが時間だとするなら、その最大の特質が物事を変化させるということである故に、romanに於いては時間の経過による物事の変化こそが最も重要だと言えるだろう。で、それを際立たせるためには小説は短い時間の経過を描くことが重要だと言える筈だ。その方が小説の密度を大いに高めるだろうから。例えば三年の間にA、B、Cの三つの事件が起こるより、一日の間にその三つが起こった方が密度は高い筈だろう。一見これでは活劇的な印象を与えてしまう危険性がある。しかし、〈物事の変化こそが最も重要〉ということから、問題なのは事件ではなく、その事件の与える影響である、という結論を導き出すことが出来る。つまり、何も大きな事件を描く必要はなく、日常的な些事を描き、それへ深い意味を与え、それによって多大な影響を与えればいいという訣。
 さて、その影響を与えられるのは多くの場合に於いては作中に登場する人物だろう。彼は自らの生を真摯に生き、喜びを喜び、苦しみを苦しむ。そうしてその精神を大いに変化させられる。で、読者は小説を読むことで、その中に生きる人物の意識をなぞってその経験を自らのものとし、知らず知らずの裡に精神を読む前と読み終えた後とで変容させている筈だろう。ということは、小説家はその作品に於いて読者に生を意識させ、その精神の変革を試みなくてはならない筈だ。読んだものの精神に影響しない小説など、一時の暇潰しにしかならないし、そんなものには書かれる意味も読まれる意味も無い。
 読者の魂へ影響する、ということを主眼とした場合、最も効果的な手法は心理小説の手法だと考えられる。恋愛心理小説の祖と言われる『クレーヴの奥方』は、人間の精神が、その心理の動きが描かれている故に時を経た現在に於いてもその登場人物たちは瑞々しいままであり、彼らの思考、行動は僕らの心を撃つ。如何なる場合に於いても、小説には人物が登場し(人以外に動物が主人公役を負っている場合もあるが)、その精神が描かれる。そうしてその精神を描くことを第一義とするならば、客観的描写よりは、その精神を内側から描くことが有効だろう。
 ところで小説には大雑把に分けて二種類の視点がある。つまり一人称小説(コンスタンの『アドルフ』や、ラディゲの『肉体の悪魔』など)と三人称小説(ラファイエット夫人の『クレーヴの奥方』や、ラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』など)とがあるということで、前者の手法では一人の人物の魂をそれこそ内側から主観的に描くことが出来、後者の手法では複数の人物の交歓によって、それぞれの人物の精神を描くことが出来る。一人称小説では一人の人物の内面をしか描けないのに対して、三人称小説の場合はより多くの人物の内面を描くことが出来る。そうしてそれは作者の精神の反映を大いに手助けする。というのも、先ず前提として登場人物は、その作者の考え得る範囲のことをしか考えられない、という原理があるからで、それ故に登場人物が増えるのに従って作者の内的世界を反映する器が増えるということになるから。そう考えた場合、小説を試みる者としては三人称小説を志向したいと考えるのは当然のことだろう。

【三月二十六日 及び回想(夏Ⅱ)】

 乗客の殆どが電車を降り、その音と気配とから伊東真一は意識を現実へ戻して電車が乗換駅に着いたのを認めた。網棚から二人分の荷物を下ろすと彼はその片方を冬子に渡そうとしたが、向かいのホームに乗り換えるべき電車の停まっているのを確認出来たから、顎で示して先に席を取りに行くよう示した。冬子は笑んで浅く頷くと小走りに乗り換え先の電車へ滑り込んで無人ボックスシートを確保し、矢張り微笑みながら彼へ向けて手を振った。その笑みには先程の無作法なやり方を咎める意志は全く無く、主人の命令を忠実に実行し終えた犬のような誇らしさをすら持っているように彼には感じられた。彼は荷物二つを抱えながらも冬子の手前意識的に悠々と歩き、彼女の取ってくれた座席に腰を下ろして鞄から一冊の文庫本を取り出しそれへ没我せんと試みた。が、活字は一向に頭へ入っては来ない、彼の内部ではその言葉たちは有機的に繋がることが出来ず、それらは虚しく宙を舞ってはばらばらになって崩壊していくのだった。頁を繰る筈の彼の手の動かないのが訝しいのか、冬子が無言で向ける視線を彼は意識した。で、視線を上げてそちらの方を見ると、彼女は先程から開いたままになっている扉を指して、
「寒い、」と言った。「早く閉じないかしら。」
「直きに閉まるよ、」と彼は言い、自らの首に巻かれていたマフラーを解いて冬子へ渡した。「これでも巻いているといいよ、僕はそんなに寒くないから。」
 冬子はそのマフラーを巻くと少し顔を顰めた。
「煙草臭い。」
「それが厭なら返すんだね、」と彼は少し戯けて言った。
「いい、」と彼女は答えた。「お父さんも煙草を吸っていたから、その所為かな。なんだか安心する。」
「そう……。」
 発車のベルが鳴り響いた後、ドアが一二度ほど閉開を繰り返してから漸く閉まり、電車はゆっくりと動き出した。彼はぼんやりと別れを惜しむ人たちが電車の動き始めた後尚も名残惜しそうに車内への視線を持続させているのを眺めた。……あの日僕と河野とは惜別の情すらを抱かず普段通りに別れ、そうしてそれっきり最早会うことは出来ないのだ、と彼は考えた。別れを惜しむ暇すらもを彼は僕らへ与えずにこの世を去った。彼の側にはそのための時間はあったかもしれないが、僕らには無かった、僕らの前には死という事実が突き付けられただけだ。兎に角彼はこの世を、そうして全ての人を捨てたのだ。その覚悟の前には、最早名残惜しさなど無かったのじゃないか、死を決意し、彼が首を括りながら足下の椅子を蹴り飛ばした瞬間、或いは睡眠薬を口に含んでそれらを嚥下した瞬間、或いは練炭の火の煙に全てを委ねた瞬間、彼は友情を、愛を、それら人間的な感情の全てを捨てて、全ての人との関係を断ち切ったのだ。そう考えるなら、僕の彼に感じていた友情は、彼にとって何の意味があっただろう。そんなものは無かったも同然と言えるのじゃないだろうか、彼は一切の友情もを、愛もを拒んだのだ、自殺がそれを証している。
 伊東真一はぼんやりと速度を上げた電車が、外の景色など全く意に介さず、顧みずにそれらを後方へ送っていくのを眺めた。それに飽きると、電車の暖気とその振動とによって眠りに誘われた従姉妹のあどけない寝顔に視線をやった。
 とその時、お姫様、清いままのお姫様、という一つの渾名が、彼の内部を掠め上がった。恐らく彼のお姫様というのは、さっき僕へ電話を掛けて来た女性、松枝木綿子なのじゃないか。電話口から聞こえた切迫感のある、しかし妙に落ち着き払ったかのようにも思える声色……、僕は河野と松枝さんとが二人で笑い合っているのを見たことがある。いやしかし、あの喫茶店の少女、須坂さんを彼は愛していたのじゃないか。分らない。彼は苦しみを僕に吐露したことがある。その苦しみの量は彼の愛を証していたのじゃないだろうか。彼はあの時、恋敵を絞め殺したいとさえ言っていたが、それ程までに愛していた、執着していた松枝さん、或いは須坂さんもを彼は捨てたのだ。河野は彼女ではなく、その愛ではなく、死を選び取ったのだ。愛することが選ぶことであり、その生を真剣に生きることだとするなら、彼は……。

 ……河野の授業の終るのを待って僕らは合流すると、正門と垂直に交差して駅へまで至る大通りを四五百メートル程進み、右に曲がって直ぐの所にある行きつけの喫茶店のドアを押した。しかしその扉は開かず、扉の張り紙によると運悪く急な用事で休業とのことだった。こんなことは初めてだったから僕らは暫くその界隈を彷徨い歩き、煩い大学生の尠そうな喫茶店を探して回る羽目になった。暫く歩き回った後、
 ――知っている店があるんだけど、と河野が言った。そこで僕の知り合いが働いているんだ。今日もいると思うから行ってみない?。
 ――いいけど何処にあるの?
 ――H…駅の傍だよ。
 その駅は最寄り駅から直ぐだったから僕は快諾した。
 ……扉の上部に設えられたベルが小気味良くカランコロンと鳴ってカウンターで読書をしていた少女が僕らへ歩み寄って来た。僕らは彼女に先導されるままに、煙草の煙をそこここに上げながら人々が騒めく狭苦しい店内を進んで隅の二人掛け席へと腰を下ろした。彼女は僕らを案内するやメニューを渡して去って行こうとしたから、河野はその後姿に向かって珈琲を二杯注文した。彼女は視線だけをこちらに向けて頷くとカウンターの奥へ引っ込んだ。そのウェイトレスは河野の友人というような感じを一切与えなかったから、
 ――無愛想だね、と僕は言った。でも美人だったね。
 給仕の少女は美しかった。その切れ長で瞳の大きい眼、整った鼻梁、あどけない唇――「瞳はまるで碧い菫。頬はまるで紅い薔薇。手はまるで白百合の花。どの花も競うて咲いた。しかし、心は腐っていた。」という詩句を僕は思い出した。
 ――僕の言った知り合いというのはあの娘だよ、と河野は言った。冷たいような印象があるのは、僕が来たからじゃないかな。
 ――仲が悪いの?
 ――いやそうでもない、と小声で続けた。彼女は傲慢なんだよ。美人というのは、どうも我儘で自尊心が高くて、とても手に負えないね。ああいう女性が男を破滅させるんだろうね。femme fataleだよ。
 僕はその時、femme fataleという言葉には男を破滅させる女性という意と、運命の女性という意との二つがあることを意識した。
 ――僕は美人は好きだけどね。なんていうか見ているだけでいい気分になれるじゃない?
 ――勿論僕も男だから分らないでもないよ、と河野は言い、でもね、もし汝の眼が汝を躓かせるなら、抉り出して捨ててしまえ……、だっけね、と笑みながら続けた。
 僕も彼に和すように笑い、鞄から煙草を出して喫み始めた。二人分の煙が忽ち僕らの周りを青白く染め上げた。と、そこへ先程の少女が珈琲を運んで来た。彼女は先ず僕の方へカップを置き、次に河野の方へそれを置くと去って行った。
 ――キリスト教か、と僕はさっきの河野の発言を拾い直して言った。敵を愛せ、やら、愛はすべてを完成させる絆、やらと聖書にはあるけどさ、愛するとはどういうことだろうね?
 河野は煙草を一吸いした後に珈琲を飲み、
 ――自分を愛するように隣人を愛せ、という言葉があるよね、と言った。これはとても難しいことだと思うよ、自分と同じように隣人を扱うのなら、或いは単に隣人を愛するだけなら簡単かも知れないけど、前提として自らを愛していなくちゃいけないんだから……。僕はキリスト教に、信仰に近付きたく思ってはいるけど、駄目みたいだ。ヤンセン主義の思想なんかは納得出来るんだけどさ、簡単に言うと人間の惨めさ、愚かさを強調して、神の恩寵の絶対性を説く思想ね、前半部分は共感出来るが、後半は無理だね、神の存在を信じ、それに縋るのは僕には無理だよ。つまり僕が言いたいのは、先ず人間は原罪を負った悲惨な、悪しき生きものな訣でさ、そんな人間に自らを愛することが可能なのかな、ということだよ。僕には自分を愛することなんか出来ないし、だから正しく他人を愛することもきっと出来ないんだろう。
 自らの意見を言い終えると河野は手に持った煙草を灰皿に押し当てた。
 ――君みたいにそうやって、キリスト教的にものごとを考えようとするのは大変だろうね、と僕は言った。確か芥川さんに、愛は性欲の詩的表現である、みたいな言葉があったね。そのくらいシニックに割り切ってしまうことは出来ないの?
 ――僕は中途半端なんだよ。人間を完全な悪と見ることも出来ないし、しかし美しいものとして見ることも出来ないんだ。美しく生きたいと希って聖書を読んでいるのに、その教えを読めば読むほど、自らの罪深さが意識される。罪から遠ざかろうと思えば思うほど、自らの罪が自覚される。それなのに、僕には悔い改めることが出来ないんだ。僕みたいなペシミストが一番信仰から遠いというか、一生至り得ないんだろう。僕は徒に藻掻き苦しんでいるだけだ。
 ――君にはストア派がいいんだろうね、キリスト教よりもね。ストア派なら、人生を悲観的に見ても差し支えないだろうし、人間の悪やら悲惨やらも、それが既に予想されている限りは、理性にとって把握され、そうして動じることさえなければ、幸福と看做されるのだしさ。
 河野は僕の意見を静かに聞くと、二本目の煙草を吸い始めた。煙草を挟んで持ったその長い指に僕は思わず見惚れた。次に僕の視線は彼の乱れた前髪の奥で僅かに輝きを放つ憂愁の眼差しへと移り、彼の内部の混沌とした鬱屈と輝かしい夢想とを感じさせる微かに潤みを持ったその美しい瞳に羨望と嫉妬とを感じた。
 ――感情を律したところの理性的な平静、アパテイアにこそ幸福がある……、と言ったって、それは消極的な生だと僕には思えるんだよ。そんなの最早人間の姿じゃない。それは不幸に慣らされた家畜と一緒にさえ僕には思える、ストア派を否定するつもりはないけどね。生というのは……、いや、分らないや。兎に角僕は人生を美しいものとして見たいね。だからといってエピキュリアンになるつもりはないけどね。
 ――考えれば考えるほど……、どうしようもなくなるね、と僕は言った。
 ――僕最近思うんだが、と河野が話し始めた。生というのは、それを真剣に生きようとすればするほど不可能性の方へ進んでいくのじゃないかな……。
 不意と先程の少女が近付いて来、河野に向かって微笑みながら、
 ――ねえ、プリン要る? と訊いた。
 河野は彼女を一瞥すると素っ気なく、
 ――うん、とだけ言った。
 その返辞を聞くや彼女は去って行ったから、
 ――優しいんだね、ちょっと彼女とのことを話してみなよ、と僕は言った。
 河野は少し考えあぐねた後に、
 ――いや、まあ大学でね、不意と二人組のメッチェンたちから話しかけられたとでも言うか、僕の掌編を読んだらしい。
 ――ふうん、君は隅に置けないなあ。その二人は君のファンという訣?
 ――白状するとね、僕の紛失した原稿を拾って届けてくれたってだけなんだよ。その時に中身を検めたというだけさ。
 河野は少し微笑しながら新しい煙草を取り出して火を点けた。そうして暫く黙り込んで辺りを見回してから、
 ――でも僕はどうも、須坂さんが苦手なんだよ……、と話し出した。僕は彼女を愛しているんだろうけど、どうもそこに確証が持てないというか、しょっちゅう酷い仕打ちをされているから、半分憎んでいるくらいだよ。彼女と過すと自分を心底哀れに思う。彼女を思うと自分が本当に愚かに感じられる。こんなの愛じゃないように思う。それにしても酷いものだよ。しかし、だったら接しなければいいって訣なんだけど……。
 カウンターから彼女の出て来るのを横目で認め、河野は口を閉ざして窓外へ視線を遣った。僕は彼女がお盆の上に桜桃や蜜柑やで彩られたプリンと一切れのパンケーキとを乗せて歩んで来るのを偸み見た。僕にも申し訣程度にはサーヴィスをしてくれるんだな、と呑気に僕は考えた。彼女はプリンを河野の前へ、パンケーキを僕の前へ静かに置くと、一声掛けるでもなく無言で去って行った。
 ――これを残して帰ってやろうか、と河野は言った。人前であからさまに好意を示すことで僕が喜ぶとでも思ったのかね。
 ――いや、悪く取り過ぎだよ。彼女は君にサーヴィスをしたかった。で、それだけじゃあ僕が気分を害するのじゃないかと考えて、わざわざパンケーキをも持って来てくれたんでしょう。いい娘じゃないか。そのプリンは君への好意の証なんだから、喜んで頂かなきゃ。
 河野は暫く沈思黙考した後、
 ――まあ、そうかも知れない、と言い、それにしても彼女はしょっちゅう僕に何かお菓子をくれるなあ、太らせるつもりかな? と戯けて言った。
 僕は河野のこけた頬や痩せた首やを眺めながら、
 ――君はもう少し太ったほうがいいね、と言った。痩せ過ぎだよ。

【某月某日 Ⅱ】 

 河野晶は電車を乗り継いで大学へ到着し、ちらと時計の針を読んでまだ二限の開始まで大分時間のあることを確かめると、学科棟の二階にある資料室の扉を開いた。朝早い所為か中はひっそりとしており、一人の少女の本を捲る音が時折響くのみだった。彼は受付で氏名と入室時刻とを記入していつも通りの席を占めると原稿の推敲へ着手し始めた。彼は念には念を入れる慎重な性格で、ここ数日の間は改稿に改稿を重ねていたからすっかり疲れ切っていたが、その理性の持続こそが小説を作り上げると信じ、疲労を感じつつも徐々に自らの意識の冴えて来るのを心地良く感じながら作業を続けた。
 彼は自らの掌編を一度通して読み終えるとそれを丁寧に鞄へ仕舞い込んで書架の間を彷徨い始め、画集のある区画へ至った。丁度そこに高い所の本を取る際に使う踏み台が置かれていたから、彼はそれへ腰を下ろし美術史順に並べられた本を端から開いていった。彼は自らの心象風景を絵画に託すことの出来る画家たちを羨み、そうして愛していた。
 若し僕に絵を描くことが出来れば、と彼は考えた。僕は一体何を描くだろう。ドラクロワのようにドラマティックな一場面を書いてみたい。モネのように移り行く一瞬の美をカンバスに定着したい。或いはルノワールのように愛らしい乙女たちを永遠へまで亢めたい。ムンクのように人生の苦しみ、不安を、生を侵食する深淵を実体化してみたい。ああ、画家として生きることが出来たらそれはどんなにか素晴らしいだろう。しかも激動の時代を生きることが出来たら……、レオナール・フジタのように単身海外へ乗り込んでパリに生きることが出来たら、そこで僕は輝かしい生を生きるだろう、自らの才能を信じ、情熱的に愛し、苦しみ、そうして自らの荘厳な死を死ぬだろう。いや、僕は文学でそれを試みるのだ。しかし主題が……。
 彼が不意と足音を聞いて辺りを見回すと先程の少女と眼が合った。それは一瞬のことだったが、しかし彼へ或る種の印象を投げ掛けた。彼はその少女を客観的に見れば美しい少女だと思った。強い意志を示すような光を湛えている眼、色素の薄い瞳、後ろで一つに纏められた明るい色の髪の毛、短いスカートから覗く長くて花車な脚、……しかしその非日本的な、些か主張の強いような美しさは彼の気に入らなかった。彼は自らの精神の持続を邪魔されたように感じたから、少女の印象を振り払うようにそこを後にして文庫本の並ぶ区画へ行き、一冊の本を選んで受付で貸出の手続きを済ますと退室時刻を記入するために表へ向かった。その紙には彼ともう一人の女学生との名が記されており、彼は何ともなしにその名――〈須坂亜里沙〉と丁寧な筆跡で書かれていた、――を読んだ後、煙草を吸いに外へ出た。そうして大きく伸びをしながら深呼吸をして鞄から煙草を取り出すとそれを守るように火を点け、青白い煙を吐き出した。彼は常に自らの孤独のみを恃む生来のストイシズムから、己独りのみで心を落ち着ける瞬間を大事にしており、この時も理性の持続の後の束の間の休息を心底尊いものに感じた。
 彼は煙草を吸い終ると学科棟ヘ入って階段を上り、二限の教室へ至った。そうして最後列に三人掛けの机が開いているのを見付るとそこへ静かに腰を下ろし自らの掌編をチェックし始めたが、しかし始業の鐘が鳴っても一向に担当教授はやって来なかったから彼は再度煙草を吸おうと考えて外へ出た。ベンチに腰掛けて煙草を一本取り出して咥えようとしたその時、遅れて来たR…先生のやって来る姿が眼に入り、彼は立ち上がって取り敢えず行き場を無くした煙草を仕舞おうとした。
 ――あら、いいのよ、と先生は言い、電車が遅れちゃって……、と続けた。
 彼は再度ベンチに腰を下ろし、落ち着いて煙草を吸うと教室へ向かった。そこでは先々週からの続きで映画が流されていて、そのモリエールラシーヌとに愛されたという女優マルキーズの生涯を食い入る様に見詰めた、隠された暗号をでも見付け出そうとするかのように。と、彼の直ぐ傍のドアーが開かれ、いそいそと、そうして身を潜めるようにしながら一人の女学生が教室へ入って来た。彼女は暗い室内を注視して前方に空席を認めたものの、しかし映画の上映中にそこまで進むことは憚られたのか、少し逡巡した後に彼の隣の椅子を静かに引いて慎ましく収まった。彼はその少女を意識しまいとして前方のスクリーンを凝視したが、しかし時折彼女を偸み見てしまうのだった、今までにも何度かこのあどけない少女のことを目にしており、その度に彼女の揺れる黒髪、質素なしかし上品さの窺われる服装、丁寧な動作、それらを快く思っていたから。
 僕の掌編はこの少女をモデルにして書かれたのだ、と彼は改めて思い出した。しかし、こういうお嬢さんと僕とは余りに違い過ぎる、この思慕は実り得ない。僕の愛する少女は、清くそうして美しく、幸福の中に育ったような、つまり罪の意識を感じずには生き得ない僕とは対極にいる。で、僕はその隔絶の故に、現実界に在りながらイデアを思うようにその美を愛しているのだろう。つまりこれは僕の勝手な一方的な夢想に過ぎない。本当は彼女だってそんなに美しい存在じゃないだろうし、僕が彼女を知らぬ故にその人格を無視して勝手に偶像を崇拝しているだけのことだ。しかし愛なんて結局は虚しい幻影なのじゃないか……? そもそも人の生と本質的に関わりのあるものはその孤独だけだろう。愛は本質的には生と関わりがない、それは常に対象を必要とする故に偶発的な、刹那的なものだから(それに対して孤独は常にそれ自身のみで成り立つし、永続的なものだろう)。しかしその愛を孤独へ流入させ、永続的なものへまで亢めようと試みることで、その孤独は洗われ、そうして清められ、美しいものとなるのじゃないだろうか。
 彼は隣の少女が機敏に顔を伏せたのを視界の隅に認めて意識を現実へ戻した。前方を見てみると、そのスクリーン上で男女のラヴシーンが演じられていたから、彼には少女の動作の理由を直ぐに理解することが出来、それが自らの気に入るのを心地良く感じた。そうして今や大胆に彼女の方を見詰めることが出来る、と考え、その瞬間一つの発想が生まれた。君、具合でも悪いんですか? と話し掛けることが出来れば、僕はこの少女と友人関係になる切っ掛けを掴めるのじゃないだろうか。しかし僕にそんなことが出来る訣ない、と彼は直ぐに結論付けた。もし、僕にその勇気があるのなら、自らの夢想を現実へまで亢める意識があったなら、僕はチャペルで、或いはあの教室で声を掛けていたことだろう。僕には幸福の予兆のようなものを把握することは出来るが、しかしその後には必ず自らの臆病さ、弱さが意識されて来る。今だってそうだ。彼女はもう至って普通に前方を見ているじゃないか……。声を掛けることが出来たなら、僕にだって自らの現実を意義のある方向へ向かわせることが可能だったかも知れないのに。恐らく彼女が偶然同じ席に着いたという幸運を僕は無駄にするだろう。そうして新たな悔恨が生まれる、それが積み重なって僕という人間の生を構成し続けるのだ……。
 彼は授業を終えると逃げるように教室を後にしたが、しかし学科棟出入り口付近にて煙草を吸っていれば彼女をもう一目見られるだろう、と考えてベンチへ腰を下ろした。そんな彼へ二三の女学生が声を掛けたが、彼はお座なりに挨拶を返すだけでそれらの少女たちとは違う、意中の乙女の姿だけを探し続けた。その際に彼は今朝の少女の学科棟へ入って行く姿を見掛けたが、強いてそれを振り払った。で、煙草を数本続けて吸った所為か気分が悪くなって来たから、彼は自らを憐れみながらチャペルへ向かった。そうして彼はこの行動も、矢張り自分の情けなさを、未練を証ししているな、と考えた。 
 チャペルの内部は思った通りに人っ子一人いなかったから、彼は最後列に腰を下ろすと机へ覆い被さるように突っ伏して眼を閉じた。暫くそうやって休息を取った後、彼は掌編をもう一度読もうと考えて鞄の中を改めたが、しかし原稿は見付からなかった。鞄の中身を全て机上に並べて点検したものの矢張り原稿は見付からず、彼は忽ち蒼くなった。最後にあれを手にしたのは二限の始まる頃だから、きっとあの教室へ忘れて来たのだろう、と彼は考えた。先程の教室を探した後に一階の事務室を訪ねてみよう、もし親切な人がいたら届けてくれているだろうから。しかしもし見付からなかったら、確か家に余り多くの改稿を経てはいない古い原稿があるからそれを基に復元しても好い。何しろ早く学科棟へ戻らねばなるまい。
 彼は重い腰を上げて事務室を訪ねたがそこへ目当てのものは届いていず、次に先程の教室を探してみたがそれもまた徒労に終った。彼は自らの不注意に起因する不機嫌を弄びながら学科棟を出ると矢張り直ぐに煙草へ火を点けて青白い煙を吐き出した。まだ三限までは二十分程の時間があったし、その授業は彼にとって余り重要なものでもなかったから、彼は歩き煙草をしながら先程のチャペルへ向かった。昼休みということで構内では学生たちが球技に興じたり、議論を戦わせたりしており、その喧騒の中を彼は閉口しながら歩み過ぎた。そうして適当な灰皿を見付けて煙草を投げ捨ててからチャペルの扉を開くと、その内部では珍しくも二人の少女――その二人組の片方は嘗て彼がこの場所で出会い、密かに憧れ続けている少女で、もう片方は今朝の資料室で擦れ違った少女だった――がお喋りをしていた。

【掌編 一時間の空想】

                    ……尊敬する作家Fに対するオマージュ
 
 授業の終りを告げる鐘が鳴り響いた。彼は物憂気にその音へ耳を傾けた後に短くなった煙草を灰皿へ放って歩き出した、二限の授業に出席するために。教室棟へ入って直ぐの階段を上った後に少し歩き、彼は教室のドアノブを捻って隙間から内部を窺うように覗くと、指定席とも言えるお決まりの座席の空いているのが認められたからそこを占めた。で、彼は肩掛け鞄を下ろし、その中から数冊の文庫本を取り出して頁を適当に捲り始めた。
 彼のそうしている間にも教室には学生たちが間断無く入って来ては固まって席を占め、後から来た別のグループと融合しながら――友人を見付けた学生の威勢よく挨拶を交わす声がそこら中で響き渡って、――教室内に分散した幾つものコロニーを形成していったが、矢張り自らの孤独を守るため(或いは別の理由もあるだろうが)、それらと距離を置くようにする学生も一定数存在し、彼もまたその中の一人だった。徐々に教室内の騒めきが亢まっていくのに伴って彼は苛立ちのような何とも言えない遣る瀬無さを感じた。
 腕時計をちらと見遣って授業開始まで未だ数分の間があるのを認めると彼は鞄から煙草とライターとを取り出して教室の出口へと向かったが、学生の群れによって大いに足止めを喰った。一瞬の間が空いたのを見逃さずに急いでドアを潜り抜けたが、教室へ向かう学生たちの流れが彼を再び閉口させた。彼は人混みの隙間を縫うように早足で歩み、漸く教室棟から抜け出した。そうして出入口の直ぐ傍に設えられているベンチに腰を下ろし、煙草に火を点けるとそれを美味そうに喫んだ。吐き出される青白い煙が初秋の風に吹かれ、その向こう側に雑談を交わしながら移動する学生たちの個体群が見えた。彼らは皆希望に充ちていて現在を真っ当に享受しているように彼には思えた。
 人間嫌い、という言葉が彼の中に浮かんだ。モリエールの喜劇……、ベルクソンの謂によれば、良識とは、相手が変わればこちらも相手に相応しく態度を変えるというような、相手と調子を合わすこと、その努力を怠らない心の粘り、だったかな。馬鹿げている、そんなことをしていれば自らを失ってしまう。しかし、失うのを恐れる程の価値が、果たして僕という人間にあるだろうか……。傲慢な、そして青年期的な潔癖さ、それを保持しようと躍起になって、それを亢めようと努力して、僕は次第に周囲との溝を深めていく。自らの手によって自己と他者との間に淵を作り、そうして人と人との間にある絶望的な深淵を意識し、
「やあ。」
 不意と声を掛けられて、彼は思索から現実へ意識を戻した。顔を上げると斉木という男が立っていた。斉木は煙草に火を点けて、
「調子はどう?」と訊いた。
「別に普通だよ、」と彼は素っ気なく返した、斉木相手にお愛想を言う気にはなれなかったから。
 沈黙が二人の間を支配し、斉木は彼の方を見遣った。彼は取り敢えずお座なりにでも会話を保たせようと考えて、
「君は?」と儀礼的に訊いた。
「うん、まあぼちぼちかな、」と斉木は言葉の裏に何かを忍ばせるようにやけながら言った。
 どうせ下らないことだろう、と彼はその厭らしい笑みを解釈した。そうして煙草の短くなったのをいいことに、それを灰皿に押し付けて丹念に火を消すと、
「じゃあ、」と言って腰を上げた。
 斉木は物言いたげな眼差しを隠すように軽く会釈をした。彼は今の会話の印象、特に斉木の笑みから逃げるため、また教室へ始業の鐘の鳴る前に戻るため急いで階段を駆け上がり、学生とその騒めきとに満ちた室内の端を壁へ身を寄せるように歩いて既に取ってある席へ腰を下ろした。急いだ所為かほんの少し息が上がっていたから、彼は深呼吸をした。そうして眼を細めて前方の教壇を睨むように見、教授である痩せた老人が何かを黒板に書いていたからその文字を読もうと試みた。彼の席は教室の中列辺りだったが、視力の弱いせいでそれは能わなかった。
 でも別に読めなくてもいい、と彼は考えた。今書いていることは恐らく授業中に改めて教授の口から話されるだろうから。しかしその内容は僕を満足させるだろうか。精神的頽廃の中にある僕の魂は、偏屈さ故に多くのものを受け付けない。この場合は教授と学生と、という上下関係のせいで僕くらいの年頃の青年には発言の善し悪しに関わらず反感を持って受け止められるだろう、勿論尊敬を、心酔を紐帯とした上下関係ならそういう風にはならないだろうが。
 彼は文庫本を手に取って没我せんと試みたが、矢張り周りの学生たちの私語なんかに気を取られたから、それを諦めて何とも無しに視線を周囲へ彷徨わせた。と、一つ後ろの列に席を占めた一人の女学生と眼が合った。その美しい瞳の印象が彼を強く惹き付けた。彼女は本の頁を繰る手を止めた。自らの無礼を恥じて彼は直ぐに正面へ向き直ったが、胸中では今の一瞬の結晶作用が行われていた。
 先程の瞬間は彼をして永遠を思わせ、それへの憧憬を生んだ、一つの楽器の音色が、その先の美しい調和を思わせるように。彼はベルリオーズ幻想交響曲の始まりを想起した。夢、そして情熱……、彼は陶酔へ身を任せながらも、中世の聖職者、ニコラウス・クザーヌスの思想――“絶対的極大”つまり同時に“極小”でもあるところの極大……、神は極大と極小との統一である、――を思い出した。そういう仕方で彼は理性と感情との統一を内部にて試みた。
 彼女のその瞳、艶のある黒い髪、質素で趣味の良い藍色のワンピース、そこにあしらわれた小さな花たち、頁を捲る手付き、その音楽……、そういった彼女を構成している要素、それらの僕に与える印象、それが貧しい現実を生きる僕の、乾いた、ざらついた内部の渇きに染み入って来る。この観念の美を愛することで僕の魂は美しく浄化され、輝き始めるだろう。そして僕はそういう仕方で名も知らぬ少女を愛している、と言ったらおかしいだろうか。……僕の内部にこの反応を、陶酔を惹き起こすということが大事なのだ。それは僕の側だけに起こったことかもしれない。しかしそれでいい。そうだからこそ僕の想いは純粋なのだ。謂わば僕は彼女自身をではなく、彼女の僕に与えた印象を愛しているのだ。ああ、この胸の高鳴り、精神の純化……。
 始業の鐘が鳴って、彼は思索を打ち切った。教授は教壇へ上って二言三言話し、学生たちの注意を惹いてから、
「授業で使う資料が一番前の机に置いてあるから、皆さん取りに来てください、」と言った。「混雑するだろうが、具体的な指示は出しません、周りを見ながら譲り合ってください。」
 彼は文庫本の活字を追いながら辺りを窺い、自分の周辺の学生たちが腰を上げると彼らに倣うように立ち上がって歩み始めた、自らの後ろに例の女学生の雰囲気を感じながら。彼には先ほど感じた印象の持続が尚も感じられ、それを靭く意識した。そうして数枚並んだ資料へ、自分に遅れて伸びる彼女の白い手を、先の方が朱に染まった美しい指を、その丁寧な動作を盗むように見た。彼女の髪の毛から、花のような可憐な香りが香り、再び二人の眼と眼が合った。資料を手にして席へ戻るまでの間、彼は彼女の足音が陶酔的な気分を亢めるのを感じ続けた。
 席に着く際に、彼はさり気なく彼女の占めた机を見た。そこに置かれたハードカヴァーの本に彼は見覚えがあったが、それが誰の何という作品かを思い出すことは能わなかった、その本はタイトルを隠すように伏せられていたから。それが彼の気を余計に惹いた。そこには彼と同じように周囲との隔たりがあり、彼女に寂寥とでも形容出来るような、一種の静謐な、そして清純な雰囲気を与えていた。
 孤独の雰囲気が、僕と彼女との魂を近しくしたのだ、と彼は考えた。そうしてその二つの孤独が不意と接近して束の間の調和が生まれたのだろう、少なくとも僕の側には。しかし或いは……。いや、もし僕が彼女を愛して、彼女も僕を愛したとしても、それが一体何になるだろう……。
 彼は暫し教壇の方を、教授を見遣ったが、その話は傾聴するには値しないと判断し、文庫本へ集中しようと試みた。しかし後ろから聞こえる本の頁を繰る音に意識は占領された。授業よりも読書を優先するというのは、一般的に考えたら彼女の(そして彼の)不真面目さを証するように思えるが、彼はそれを文学に対する熱心さの表れだとして好ましく思った。で、見える範囲で教室内を、学生たちの様子を窺って、彼は自分の内部に描かれた幸福な情景――この人熱れのする教室の中で、僕と彼女とだけが自らの孤独を守り、距離を近くして書物に傾倒している――の現象しているのを確かめた。それから彼は二人の頁を捲る音に傾聴して、空想に精神を委ね、様々の可能性に思いを馳せた。
 ……終業の鐘が鳴り、僕はさり気なく彼女の席を立つのを待って、自らも腰を上げる。孤立している二人は、多くの学生たちが友人と交歓のために歩みを止めたり、或いは学食の方へ向かって行ったりするのとは無関係に歩みを進めたから、次第に並んで歩くような形になる、まるで孤独な僕らだけが濾過されたかのように。僕には先程描いた幸福な情景を根拠に、彼女に話しかけても大丈夫だろう、という気がしている。僕と彼女とは共通の境遇にあるのだから、少し話しかけたくらいで厭な顔はされないだろう、それに、傍から今の僕らを見た人がいたとして、その人が僕らを友人関係として見てもおかしくはないだろうし、つまり僕と彼女とは最早他人同士でもないだろう、と考えたから。そのどこか堀辰雄の掌編を思わせる情景が僕の孤独の気に入る。不意と僕は、
 ――あなたも、あの授業が退屈だったのです? と訊く。何か本を読んでいましたね。
 彼女はその言葉を受けて、ほんの少し逡巡したものの、僕が先程傍に座って授業を受けていた学生であること、教室を出ていつしか足並みを揃えていたことを無意識的に諒解して、
 ――ええ、と答え、でも退屈だとは思っていません、と続ける。退屈というより、……こういう言い方をしたら失礼かもしれませんし、あの講座の性質上しょうがないことですが、すこし初歩的過ぎるように思えます。
 ――そうかも知れませんね、と僕は笑んで言う。ところで何を読んでいたんです?
 彼女は手提げ鞄から一冊の本を取り出して僕に見せる。
 ――ああ、道理で見覚えがあると思った、と僕は独り合点して言う。さっきその本の机に置かれているのを見たんですが、見覚えだけはあったけど分らなかった。K…さんの全集なんですね。僕は文庫で読んだから。
 僕の喋るのを彼女は静かに聞く。その美しい瞳は、僕もまたその作家の読者であるということを知って少し輝きを増したようだ。
 ――一巻ということは、初期の短編と、あと二作目の中編とですか、と続けて訊く。
 ――そうです、『S…』という作品を読んで興味が湧きまして。
 ――ああ、あれは良いですね。僕も読みました。でも珍しいですね、K…さんを読むだなんて。
 ――周りには読んでいる人は尠いですね。あなたは何を読んでらしたんです?
 僕は先ほど読んでいた小説の文章――この魂の静けさ、この浄福、この音楽、この月の光……。僕は今死んでもいい、こうやって、君を愛しながら、いま、――を思い出す。
 ――僕は……、
 マイクを持って何かを喋りながら歩んでいた教授が彼の傍へと至ったから、彼は礼儀的に空想を止めて開いていた文庫本を閉じ、後方に於いて同じような動作の行われたのをその音と雰囲気とから感じ取った。教授は近くに座っている学生たちへ向けて質問を投げたから、辺りに沈黙が広がった。教授は幾つかのグループそれぞれへ、「君は先程引用した詩句から、何を感じましたか?」と質問し、数人の学生がへどもどしながらも自分の考えを述べた。教授は彼と彼女との座っている方を見て、そちらにも意見を訊いた。二人はどちらが答えるべきかと見詰め合ったが、出来れば答えたくない、ということを互いに諒解するに過ぎなかった。
「僕は、……よく分りません、」と彼が言った。「その詩人を信用していませんから。」
「正直でよろしい、」とだけ言って、教授は別の方向へ質問を投げた。
 二人は再度眼を見合わせた後に読書へ戻り、彼は中断された夢想へ取り掛かった。
 ……僕と彼女とは大学構内に設えられたベンチに隣り合って腰掛け、先程の授業のことについて雑談を始める。肌寒さを感じさせる風が吹いて少女は藤色のカーディガンを羽織り、僕はその姿を正面からみたいと考えて立ち上がる。そうして彼女から少し離れて煙草に火を点ける。不意と改まって、
 ――そういえば、あの時、答えてくださってありがとうございました、と彼女が礼を言う。
 ――いえ……、と僕はそれに応える。あなたの方がうまく答えられたかも知れません。僕のあの拙い意見とは言えない返答なんかより、あなたの方がよっぽど、
 ――いいえ、私本当にどうしようかと思いました。だって話を聞いていなかったし、そもそも誰の詩句を引用したのだろうかとばっかり考えていました。
 ――誰だったんでしょうね。
 僕のその言葉を聞いて彼女は驚いた顔をして、
 ――あなたも聞いていなかったんですか、と微笑みながら言い、その白い歯がちらと見える。
 ――ええ、本を読んでいましたから、と僕は言い、煙草を吸って青白い煙を吐く。確かあの先生は現代詩の先生でしょう? 僕には難しいです。フランスの分かり易くて綺麗な詩の方が僕は好きですね。
 ――例えばどんな詩があるんです?
 ――Mignonne,allons voir si la rose……、と僕はピエール・ド・ロンサールの詩句を口遊む……。
 辺りが騒めき始めて、彼は自らの腕時計を見て時刻を読んだ、背後に彼女の本と筆記用具とを片付ける気配を感じながら。それは彼の内部に細やかな幸福をさえ生じさせなかった。終業の鐘が鳴った。
 もうこれで終りなのだ、と彼は考えた。彼女との繋がりは断たれる、幸福の錯覚は消えていく。彼女の美しい印象は次第に色褪せ、そうしていつしか完全に消えてしまう、泯びてしまう。……果たしてそうだろうか? あの調和は永遠なのだ、あの瞬間に於いて僕は永遠を見た。その陶酔、眩暈、恍惚……、そして今の僕の感じるこの渇き、執着、それらが思いの強さを物語って、証しているじゃないか。印象だけへの思慕だとしてもいい、彼女の名前をすら知らないとしてもいい、例え人に笑われたっていい、非難されたっていい。今や僕は彼女を愛している。……しかし。
 彼はいつの間にか配られていた受講票へ記入を済ますと――それを書いている最中に、彼女が先んじて講壇へ向かうのが意識された、――人混みを掻き分けるようにして教壇へ至り、紙片を提出し、辺りを窺い、少し離れた所に彼女を見付け、その後ろ姿を追った。先程空想した通りに濾過作用が起きて彼女に追い付くことが出来たから、彼は歩く速度を緩めた。彼は何気ない風を装って歩みを進めていたが、彼女がちらとそちらを見たことに気付かない筈がなかった。しかし。
 挨拶くらいならしてもいいだろう、と彼は考えた。何故なら僕と彼女とは全く無関係という訣じゃないのだから。しかし、僕の夢想、あの美しい未来は、僕によって一方的に作られたものであり、それ故に美しいのだ。そこには僕の自由がある、輝かしい未来がある、無限の可能性がある。しかしそういう仕方で彼女を愛するのなら、僕には現実を犠牲にする必要があるだろう。いや、そんなことはない筈だ。現実を夢の境地へまで亢めることこそが、本当に生きるということだ。しかし、しかし。……これまでにも何度か、人を愛したことはあった。しかし彼ら、彼女らは僕を去った。結局人は孤独なのだ。だとしたらその孤独を守り、自分の孤独のみを恃んで生きるしかないじゃないか、この自らの内部にある美しい印象のみで満足すべきじゃないか。そういう風に愛していればその印象は、彼女は美しいままに保たれる。何も徒に自らを傷付けなくてもいいじゃないか。しかし、それは自らの生に対して逃げを打つというものじゃないだろうか。……僕は彼女を愛しているのだ。傷付いたっていい、彼女が僕の愛を拒んだっていい、試みに失敗したっていい、……僕は自分の人生に彼女の痕跡を残したい、彼女を僕の生の一部としたい……。そうして人は思い出によって生き、その孤独を靭くするのだ……。しかし。
 途中で彼は歩みを止めると近くのベンチに腰を下ろして煙草に火を点け、去って行く彼女の後ろ姿を眺め始めた。次第にそれは小さくなっていき、彼女が大学の校舎を抜けると完全に見えなくなった。
 彼が指先で煙草を叩くと、灰は風に吹かれて飛んでいった。それを眼で追いながら、「名前も知らない、ただ偶然席を近くしたというだけの少女だ、」と彼は口の中で呟き、「しかし僕はもうこんなにもあの少女を愛してしまっている、」と続けた。彼は瞼を閉じて鮮明な少女の肖像へ想いを馳せた――憧憬と後悔とが絡み合いながら自らの内部に余韻の音色を響かせ、それが追想的な幸福感となるのを感じた。いつか僕と彼女とは再び出会うだろう。そうして僕は、しかし……。
 彼の空想した未来は、ひょっとしたら本当かも知れない。それはあり得ることだろう、彼に自らの夢を現実へまで亢め、力強く生を生きようとする意志がありさえすれば。
               ……この短編は名も知らぬ少女に捧げられる。 


【某月某日 Ⅱ (続き)】

 河野晶の出来によって少女らはお喋りを止め、チャペルは気不味い沈黙に支配された。彼は名残惜しそうに片方の少女を見詰めながら、その場を後にしようと考えて踵を返した。と、その時、
 ――待って、と声を掛けられた。
 振り向くと彼の期待とは反対に明るい髪をした少女の方が歩み寄って来たから、彼は自分に声を掛けたのはこちらの少女だったのか、と少し失望しながら、
 ――何故です? と訊いた。
 ――これ、あなたのものじゃないですか? と言って彼女は原稿を彼へ差し出した。
 確かにそれは彼の原稿だった。彼はそれを受け取って、
 ――僕のです、と言った。拾ってくれたんです? どうもありがとう。
 少女はお礼を言われるや喜色満面といったように微笑んだが、しかしそれは作られた科のような印象を彼に与えた。そうして表情を申し訣なさそうなものに一変させ、
 ――実は中身を少し見てしまいました、と言った。
 その掌編はこの少女の友人らしい女性へ捧げるために書かれたものだったから、彼は自らの密かなる思いが露見したかと狼狽えてその頬を微かに赧らめた。その様子を見て少女は微笑んで、
 ――でも、とても良かったですよ、と言った。
 その言葉は彼の考えていることとはちぐはぐなものだった。で、彼は尚も気恥ずかしさを味わい続けたが、しかしこれを読んだだけじゃ、本人で無い限りは誰を想って書かれたかは分らないだろう、と考えた。そうして黒髪の乙女の方は未だチャペルの最後列に腰掛けたままなのを幸いに、
 ――あの、あちらの方もこれを読んだのですか? と小声で訊いた。
 ――いいえ、あの子は良い子だから勝手に人のものを読んだりはしません、と少女は悪戯っ子のように笑んで言った。
 不意と良い子と評された少女が立ち上がって二人の方へ歩み、
 ――私は駄目って言ったんですけど……、と呟いた。
 ――でもまあ何れは人の目に触れることを目標にしているんだし、別にいいんですよ、と彼は庇うように言った。しかし手許に戻って来て本当に良かった、僕随分焦ったんです。
 ――どういたしまして、河村さん、と明るい髪の少女が言った。
 ――僕、河野です。でもどうして名前を……?
 ――今朝、あそこを出る時に記名表を読んだんですけど、見間違えていたみたい。
 〈野〉という字が大分雑に書かれた故に〈村〉と呼べる程まで原型をなくしていたのだろう、どちらも偏と旁とから出来る字であるし、とぼんやり考えながら、不意と彼は新しい発見をした。僕が彼女の名を読んだように、彼女もまた僕の名を読んでいたのか……。
 ――君たちの名前は何て言うんです? と彼は訪ねた。
 ――私は須坂亜里沙で、この娘は松枝木綿子です、と明るい髪の方の少女が言った。私たち、ずっと前からあなたのことを話したりしていたんですよ。いつも一人でいますよね。どうしてなんです?
 ――僕は一年生の頃からここにいるという訣じゃなくってですね、つまり他大学からの編入生なんです。だから言ってしまえば友人がないんですが、それでも大して困らないからね。
 ――どうして編入したんです? と須坂亜里沙が訊いた。
 ――ちょっとね……、と彼は口篭り、ところで二人は何年生なんです? と話題を転じた。
 ――私たちは二年生ですよ、と須坂亜里沙が答えた。
 先程からこちらの少女からしか返辞を貰えないな、と彼は考えて強いて松枝木綿子の方を見詰めたが、その視線の交わることは無かった。不意に三限の開始を告げる鐘が鳴り響いて三人は次の授業の始まることを眼で確かめ合い、松枝木綿子が怖ず怖ずと言った様子で、
 ――私三限に行かなくっちゃ、と言った。
 ――河野さんも一緒の授業ですよね、一緒に受けましょうよ、と須坂亜里沙が提案した。
 ――両手に華ですね、でも遠慮しようかな、と彼は言った。僕徹夜で作業していたからここで一休みして帰ります。
 須坂亜里沙は彼の言葉に飛び付くように、
 ――じゃあ私も三限はサボろうかな、と言った。
 彼は一瞬この少女は自分に好意を持っているのじゃないか、と空想したが直ぐにそれを振り払った。しかし一体何の為にここへ残ったのだろう。まさかあの掌編の〈名も知らぬ少女〉というのが松枝さんであることに気付いたのだろうか。いやそんな筈はない。しかしそれ以外に理由は見当たらない……。
 須坂亜里沙の方は、この憂愁の青年に差す影、その孤独に秘められた謎に興味を惹かれてここに残ったのだったが、二人きりになるや急に言葉が出なくなったから困ってしまった。さっきまでは木綿子さんもいたし、そのお蔭で勇気もあった、と彼女は考え、そこには彼女よりも自分を目立たせようという想いがあったのじゃないかしら、ということに思い当たった。
 沈黙の裡に彼は少女を幾度か偸み見て、矢張りこの少女は審美的には好ましいな、とその度に思った。と、不意に眼が合ってしまったから彼は、
 ――原稿を拾ってくれたのは君ですか? と訊いた。
 ――いいえ、と彼女は答えた。木綿子さんです。二限の終った時に忘れられているのを見付けたらしくて、それで河野さんよくチャペルにいるから行ってみよう、ってあの娘が言い出したんですよ。なんでもここで一度会ったことがあるとか。
 松枝さんはここで嘗て出会ったことを、それがもう数カ月前のことなのに覚えていてくれたのか、しかも僕がよくここにいることを知ってさえもいる、と彼は思い、それを幸福に感じて微かに微笑んだ。不意に彼の無邪気な表情を見て彼女は、この人は孤独だけど人当たりの悪い人という訣ではない、という考えを強め、
 ――あの小説は実話ですか? と笑みながら訊いた。
 ――いえ、その題が示している通り空想ですし、特にこれと言ってモデルの少女はいません、と彼は嘘を吐いた。
 単なる気恥ずかしさから僕はこの少女を欺いたというだけだ、と彼は考えた。しかし、僕はこの美しい少女に、今現在の僕には意中の乙女があるということを知らせたくないのじゃないか? 
 ――良かった、と少女は呟くように囁いた。

【三月二十六日 及び回想(冬Ⅱ)】

 伊東真一は向かいの席で寝息を立てている冬子へ眼を向けた。それは一つの満ち足りた幸福のように彼には感じられた。と、不意に彼女は眼を醒まして二三度手で目尻の辺りを拭うようにしてから周りをきょろきょろと見回し、ドアの上辺りにある電光表示から現在地を認めたようだった。その時は丁度東京都に入ったところだったから、彼は彼女へ、
「もう少ししたらO…駅で乗り換えるよ、」と言った。「そこから三駅で僕の下宿に着く。そうしたら僕の部屋に冬ちゃんを案内するから、暫く留守番をしていてくれないかな。夜までにはきっと帰るよ。」
「うん。お部屋は散らかっているだろうから片付けをしておくね。晩御飯はどうしよう?」
「そうね、冬ちゃんが作ってくれてもいいし、二人で食べに出掛けてもいいね。」
 言い終えてから、不意と罪悪感の出来したことを彼は意識した。最も親しかった友人の死という事実があるのにも関わらず僕は早くも日常性を回復している……。しかし、生きているものは、精一杯生きるべきだ。そうして、生きているものには幸福になる権利がある、幸福を求める権利がある筈だ。河野の死は確かに悲しむべきことだが、それよりも生きることの方が何よりも優先されるべきじゃないだろうか。これは僕の卑怯なエゴイズムによる屁理屈だろうか? いや違う。河野は間違ったのだ。生のある限り僕らは生きるべきだ、仮に不可能だとしても幸福を求めるべきだ、そうして悔いなく愛するべきだ。
 彼は再度向かいの席の少女を眺めた。その若やいだ声や、天真爛漫な心、澄み切った瞳、搾りたてのミルクのように滑らかで清純な頬、――全てが冬子の純粋さを証していた。そうしてそれだけではなく、来月には大学生になるからだろうか、佇まいに一種の知的さが現れていた。今までは子供だとばかり思っていた少女、……彼が冬子を思い起こそうとして先ず浮かぶのは野暮ったいようなすこしぼさぼさの髪をして、部活動のためにジャージを着ていた、まだ僕の肘くらいまでしか身長のない姿だ。が、彼女は今や、胸の辺りまで綺麗な黒髪を伸ばし、紺のロングコートを身に纏う、眼に聡明な輝きを持った少女になっている。彼はその二つの異なった彼女の姿を心中に浮かばせながら、見知っていながらしかし見知らぬ少女、その鮮烈さ、その魅力の瑞々しさを思った。彼女がこんなにも美しいのは……、と彼は考えた。それは僕が彼女を愛しているからだ。それだからこそ彼女はこんなにも綺麗なのだ。だから、その美の秘密には、実は僕の精神の作用に負うところがある。つまり美というものは主体と客体との相互作用の結晶なのだろう。その結晶を極限へまで亢める試みにこそ精神としての人間の幸福があるのだと僕には思える……。
「冬ちゃん、綺麗になったね……、」と思わず彼は声に出していた。
 冬子は顔を赧らめ、それを隠すようにマフラーに顔を埋めた。その恥じらいの動作はわざとらしさを彼に思わせず、彼女の純真さを証するかのように映った。
「急に変なことを言わないで……、」と彼女は膨れながら言った。
 その愛らしい姿を見ながら彼は、河野の愛していた女性というのは一体誰、いや、松枝さんと須坂さんとのどっちなのだろう、とぼんやり考えた。まさか河野が恋の懊悩の涯に自らの命を断ったとは思えないが……。河野は喫茶店で須坂さんを愛しているようなことを言っていた。最後に会った日に彼は愛する苦しみを語りはしたが、意中の少女の名を出しはしなかった。彼の死を僕に伝えたのは松枝さんだった。そうして僕は彼と松枝さんとが親密そうにしているのをまざまざとこの眼で見ている。いや、彼は誰も愛しはしなかった筈じゃないか、その死がその証しているように。だが、僕が河野を思い出す時には何故か二人の女性の印象が伴って来る。

 ……僕の質問を受けて河野と松枝さんとは顔を見合わせ、そうして河野の方が口を開いた。
 ――うん、あの娘のことだよ。松枝さんと喫茶店の須坂さんとは高校からの親友だそうでね。
 ――そうなんだ、とだけ言って僕はジョッキに口を付けた、深く詮索することは無遠慮に思えたから。
 僕と河野とがそれぞれのジョッキを乾かすのを見て、松枝さんは一度自らのグループの占めている所へ行くとグラスを持って僕らの席へ戻り、今度は僕から見て右側、河野から見て左側に当たる俗にいうお誕生日席へ腰を下ろした。そうして小さな、恐らくカルーアミルクの入っているそれを両手で支えてちびちびと飲み始めた。その仕草を見た河野が気易く戯談を投げると、それに対して松枝さんは河野の肩を優しく打つようにして、二人は一緒に笑い声を上げた。
 僕は彼女に遠慮して、河野へ耳打ちをした後煙草を吸う為に外へ出た。少し暑いくらいの煖房に火照らされた身体が冬の夜風に冷やされるのを感じながら僕は寂れた裏通りに暫く佇み、煙草に火を点けると何となく歩みを進めた。居酒屋なんかのある筋を外れて住宅街に出、尚も暫く歩みを進めて行くと小さな掘割に打つかったから、僕はその水底に揺らめく水草と、水面に揺蕩う月とを眺めながら下流へ向かった。煙草の半分くらいが灰になった頃に僕は掘割へ掛かる小さな橋を見付け、その真中の辺りまで進んで欄干に凭れると、――ミラボー橋の下をセーヌが流れる 二人の恋が なぜこうも思い出されるのか 喜びはいつも苦労の後に来たものだ……、というアポリネールの詩句をシャンソンに乗せて、それを心の中で暗誦しながらじっと水面を凝視した。
 今頃二人は何を話しているのだろうか、と僕は考えた。きっと春休みの予定やらを話し、そうして二人で逢瀬する約束の一つをでも交わしているだろう。若しかしたら河野の意中の少女というのは松枝さんのことかも知れない。さっきの二人は本当にお似合いの、可愛らしい恋人同士のように見えた。松枝さんはわざわざ自分の友人たちのグループを抜けて河野のところまでやって来たんだから、きっと彼女は河野を好いているのだろう……。
 僕は水面に煙草を投げ捨てると引き返して歩き始めた。住宅街の碁盤状に劃られてそれぞれ似通ったような道々は僕をして方向の感覚を失わせかけたから、途中で身体を反転させて往路の際に見た光景を思い出そうと試みた。……何の気なしに進んだ後、振り返って見るや複雑に入り組んでいるそれは僕に現実というものの不可思議さを思わせた。僕らは何気無く日常の生を送るが、時折ふと迷い立ち止まってはこれまでの進路を省みる。と、それは様相を一変させており、見るものを驚かせるだろう。あれほど自らに親しみ深かったそれは、今や冷酷に秘密を秘めたままひっそりとしている。しかし時には、当時は些事だと思って蔑ろにしていた一場面の裏の、予期し得なかった秘密が姿を表すこともある。そうして漸く人は、その険しい道程の至る所に驚く程の偶然やら様々の暗号やらが秘められていたことに気付く、……例えばスワン家の方への道と、ゲルマントの方への道が実は繋がっていたことに彼が気付いたように。……そんなことを考えながら僕は大凡の方向さえ合っていれば何れ見知った道に出るだろうと気楽に歩みを進めた。
 小さな座卓を向かい合わせに占めて河野と松枝さんとは何かを話し合っていたが、僕の戻ったことを認めると二人は話を止め、河野が僕へ、
 ――遅かったね、とだけ言った。
 僕が腰を下ろすと松枝さんは気を利かせてその目の前にあった僕のジョッキを渡してくれたから僕はそれを一息に飲み干した。
 ――で、さっきの続きなんだけど、と河野はそれまでの話題を続けるように言った。キェルケゴールは愛する少女の為に書き続けたそうなんだけど、きっとそれは愛する意識と神を求める意識とが高い水準で試みられて、それらが靭い意識として持続された結果だろうね。で、彼の愛は宗教的情熱とともに試みられた時点で永遠の生を獲得したのだと思う。キェルケゴールは彼女を拒むことで逆に、彼女を永遠へまで亢めたんだろう。『眠られぬ夜のために』の作者、ヒルティに、「愛と希望とが目指すところは決して成就することのない完全性である。それでも尚それを抱き続けるならば、それは人生の塩となり杖となる。」という言葉があるんだけど、ヒルティの言う通りで愛と希望というのは決して成就することのないものだろうね。だからそれを得たと錯覚すると最早それは腐ってしまう。信仰、愛、希望、それらは常に試みられ続ける状態じゃないといけない、そうしてそうあってこそ永遠なんじゃないかな。
 河野は言い終えた後、喉の渇きを癒やすようにビールを飲み干して、対面の少女を見遣った。その姿を見ながら、河野は自らの愛をキェルケゴールを通して彼女へ表明しているのじゃないか、と僕は考えた。
 ――でもそれじゃ、決して愛する人と結ばれないんじゃありません? と松枝さんが尋ねた。
 河野は少し考えてから、
 ――うん、と肯い、これは僕個人の考えだけどね、と前置きして口を開いた。僕は愛というものは孤独に試みられる場合が最も美しいんだと思うよ。こんな風に言うと臆病者だと思われるかもしれないけどね。アリストテレスに〈デュミナス〉と〈エネルゲイア〉との概念があるでしょう、あんな具合だよ。花は蕾である場合には可能性のみを持っているけど、花開いたら後は枯れるだけでしょう。愛も孤独にある場合は可能性に満ちているけど、現実に結ばれたらあとはエゴとエゴとの衝突があるだけだよ、お互い傷付け合って終るだけに思える。結ばれない方がきっと幸福は純粋だよ。
 僕はその科白を聞いて、矛盾しているのじゃないか、と考えた。河野は恋敵を殺したいと考えるほど狂おしく愛する悩みを苦しんでおり、愛する中に不幸と苦悩とをしか見ていなかったのに。僕の存在を気にしてか、河野はこちらをちらと見遣って微かに微笑んだ。
 ――そんなの、悲し過ぎる……。きっと河野さんは真剣に人を愛することが出来ないんでしょうね。
 松枝さんの声音は他人事を論じているのとは違う、生々しい感情を宿しているように思えた。その頬は赤く染まり、眼は潤みを持ちながら冴えていた。河野は曖昧に、そうして卑屈そうに笑みながら黙って煙草に火を点けた。と、不意に松枝さんのグループから数人の女学生がやって来て、自分たちはもう直ぐ解散するとの旨を伝えた。松枝さんもそれに付き随うように腰を上げたが、河野は彼女の腕を取って、「木綿子さんは僕が送るから、君らは先に帰るといい、」と周りに聞こえる声量で言った。松枝さんの友人たちは顔を見合わせて二言三言私語をし、二人を冷やかすようなことを言い残して戻って行った。松枝さんは耳まで真っ赤になりながら友人たちのところまで歩いて行き、その間に河野は僕へ、「君を蔑ろにしているようで悪いね、」と簡単に詫び、それに対して僕は「気にしなくていい、君と二人きりより可愛らしい女性のいた方が僕も楽しいよ、」と返した。松枝さんが自らの鞄とコートとを手に持って戻って来た時、
 ――もうこんな時間か、と河野は言った。
 ――そうね、もう帰ろうか、と僕は返してから、君らが一緒に帰るんなら、僕はちょっと用事を済ましに行くよ、と続けた。
 河野はそれに頷いた。松枝さんは僕の方を向いて、
 ――すみません、お邪魔してしまって、と詫びた。河野さんを取ってしまったようで悪いです。
 ――いや、全然いいですよ、河野とはいつでも会えるんだし、もし欲しかったらあげますよ、と僕は戯談を言った。
 河野は返す言葉の見付けられない松枝さんを一瞥してから煙草を灰皿に圧し付けて、
 ――よし、出よう、と言った。
 僕らは各々上着を羽織り、荷物を確認した後に会計を済まして店を出た。そうして僕らは別れを惜しむような言葉を幾らか述べ合った後に解散し、僕は河野と松枝さんとの去って行く後ろ姿を眺めた。お酒の所為か、幾らか脚元の覚束ないような松枝さんを河野は例のぎこちないような歩き方でもって気遣いながら歩みを進め、二人は雑踏へ紛れて見えなくなった。

【三年前 Ⅱ】

 僕らが部室で二人っきりになった時のことだった。部室のドアを開けると彼女が窓際に置かれた椅子に優雅に腰掛けて窓外を眺めていたから、僕もそれに倣って外へ視線を投げた。暫くそうしていると、ちょっとしたアイデアが僕の内部から湧き上がり、それを書き留めておく為僕はノートにペンを走らせた。
  ――河野さん、何を書いているんです?
 虚を衝かれたように僕は思った、まさか彼女の方から話しかけてくるとは予想すらしていなかったから。あどけなさを残した少女の真剣な瞳……、なんて美しいのだろう。その瞳を見詰めながら、
 ――僕は将来、小説家になりたいんです、と言った。その為に色々なことをこのノートに書いているんですよ。
 ――素敵ですね。私、見てみたい。
 ――確か、君は絵を描いているのだっけ。それを見せてくれるのなら喜んで見せてあげますよ。ただ、これはまだ全然小説としての形を成していないんです。星雲的な原型みたいなものかな。それで、このノートはカオス的なんです。だから、読んでもきっと楽しくないと思う。それより、ね、君はどんな絵を描くんです?
 ――それが今、停滞しているんです。私もカオス的なんでしょうね。描きたいものはいっぱいあって、それらが今、星雲的にぐるぐると回っているというか。
 ――藝術家が持つ何かを創りたいっていう根源的な欲求ブラックホール的なものなんだと僕は思うんです。一種の闇のような部分があると思う。それは例えば孤独や絶望による欲求が求心力だったりする。つまり、幼い場合の創作心は無闇に色々なものを吸収すると思うんです。それは例えば見たままに対象を写し取ったり、思うことをそのまま書き綴ったりするような感じでしょうか、それはアマチュアの藝術です。本当の藝術はそれと違って、精神が習熟してくることで、創作心と自分の孤独や絶望と同化してくると思う。例えばムンクの叫びの絵とか、ああいう感じに……。
 彼女の瞳が輝きを増して、僕はそこへ吸い込まれるように、そうして、本当に吸い込まれたく思いながらもそれを見つめて話を続けた。
 ――本当に素晴らしいものは孤独や絶望のような人間の根源的な物と同化していると思うんです。というか藝術を試みれば試みるほど孤独や絶望やにぶつかるんです。で、僕は自分のそれは果たしてそれは藝術家の孤独、絶望と言えるのだろうか……、ということを最近考えているんです。なんて言うかな、孤独の中にこそ愛を、絶望の中にこそ希望を、そういう風に僕は逆説的な試みを為そうとしているんでしょうか。そういう考えに憑かれているんです。最も絶望している者が最も信仰に近い……、そんな言葉がどこかの哲学者の本にあったっけ……。
 彼女は相槌を打ちながら必死に僕の話に耳を傾けていたが、完全な理解へは到達し得ないと思われた。きっと彼女は絶望とは無縁の幸福の中に暮らす人だろうから。
 ――ごめんなさい、暗い話をしてしまった。君を相手にすると、僕は自分の精神が君を目掛けて流れ出るように思う。君はまるでブラックホールみたいだ。いや、引力かな。
 照れくさくなり、僕は最後を強いて戯談風に素っ気無く言った。
 ――もし、本当に書きたいものが見つかったら、それをぜひ見せてください。
 ――ええ、きっとお見せします。約束します。
 ――楽しみです。僕は本当に君に惹かれているみたいだ……。
 その時、彼女は何事もなかったかのように再び桜に目をやったが、幾らか頬が赤く染まっているのを僕は見逃さなかった。若しかしたら、彼女と桜とのイメージが統合して、薄桃色の印象を僕に抱かせたのかも知れないが……。しかし、僕はいつしか僕と彼女との愛が開花するだろうという、些か自惚れた予感の切っ掛けをこの時から胸に秘め始めた。
 僕は音楽を掛けることを提案し、彼女も同意したから部室の棚からお気に入りの『幻想交響曲』のレコードを取り出すとそれを流した。
 悲壮な、そして情熱的な調べが響き、次第にそれは沈鬱のうちに沈むかと思いきやパトスを伴って急激に高まりを迎える。そこから優雅で穏やかな愛が持続して行く。しかしその中には当然悲しみがあり、また歓喜もある、それらを愛は包括していく。魂が幾度もクライマックスを断絶を繰り返しながら、夢のように、そうしてそこに恋人の面影を見ながら……。
 僕はその音楽に陶酔した。それに僕の精神を委ねるように、若き日のベルリオーズと僕の魂とを重ねて、そうして喜びのイマァジュに於いても哀しみのイマァジュに於いても彼女を思った。そうして次第にそれらは重なり合って行く……。
 彼女がうっとりとしながらその調べに耳を澄ましているのを横目で見ながら僕もまたその音楽へ没我した。
 美しい弾けるような音と共に舞踏会の場面に曲は移る。うっとりするくらい華やかで優美な曲調、そこには美しいもののみがある。そこには観念的な永遠の恋人のイマァジュが随所に存在する。そうして歓喜の持続は徐々に高まって行く。それは繰り返される度に、次第に歓喜を伴って増々強まっていく。そうして、それは頂点に達して終わる。
 夕暮れに物哀しい牧歌的な調べが響いて第三楽章が始まる。それは穏やかな、平和的な風景を思い起こさせるが、しかし、彼にはもう平和な状態は残されていない。情熱を歓喜を愛を夢を知ってしまった彼の魂は穏やかな状態に留まることなど出来ない。情熱は沈鬱を、歓喜は悲哀を、愛は孤独を、夢は現実を常に伴うものだ。そうしてそれらを自覚した魂は常にどちらかに傾かなくてはいけない、中間などは存在しない。中間層には常に不安が存在して、それは霧のように彼の魂を囲み、捉え、どちらかの状態に彼を運ぶ。その魂の不安定さを彼は確かに自覚する。それは絶望へと形態を変えて彼を捉える。
 おどろおどろしくもロマンティックな調べとともに彼は行進して行く。次第に曲調は華やかになっていくが一体どういうことだろうか。阿片の眩暈なのだろうか。どんどんと行進は進む。彼の意志に反して? 分からない。底抜けに明るいような曲調の中にも喜劇的な哀しみを、悲劇的な喜びを伴いつつ彼は死の行進を進んで行く。彼女の姿を見付けるもそれは最後の愛、彼は死の一撃に屠られる。
 死の行進を終えた彼は不気味な饗宴に彷徨い込む。彼女の観念すらもがそこでは醜悪さを湛えていて彼を苦しめる。嘗ての面影を失くしても尚彼を苦しめる。不気味な観念達が彼の周りを踊る。醜悪な世界を生きていても、彼女を想起することは止められない。彼女への思いが、今尚彼女が亡霊となって自分を苦しめる所に逆説的に彼は……、
 いや、気付くのは僕だ。僕はそれを改めて気付く。自らの意志を反復する。藝術の力を借りて、崇高なものへの思いの靭さを受け取りなおす。頽廃に浸っている場合じゃない。調和を目指す為に、僕は愛を試みなくてはならないだろう。

【手記 文学的断片Ⅱ】

 僕は芸術を信じている。なので先ずはそこから綴りたい(そうして僕の思想がそこから展開していくのに任せようと思う)。
 芸術とは結果ではない、もし結果のみの作品が芸術になり得るのだとするなら、芸術は誰でもが自由に、そして容易に創れるものになるだろう。僕はそれを認めたくない。では芸術、真の芸術とは何だろうか。僕が思うに、それは結果であるとともに過程でもあるものだ。つまり、作者の芸術家としての苦悩、努力、思想、態度をその作品の内部に潜ませているものでないといけない。僕らはその生を送っている限り、経験の蜜を蓄え続ける訣だが、しかし多くの場合に於いてそれは魂には直接な影響をせず、その生の外部を撫でるというに過ぎないだろう。それに対して芸術家は常に彼特有のメチエーで様々の物事を捉え、常に意識的に生を送り、その経験を内面へ深く食い込ませなくてはならない。その血の滲むような内的な経験が芸術としての文学を生むのだと僕は思う。そこから生まれる作品は、必然的に苦悩を、努力を、思想を、態度を必要とするような、
 作者自身の魂の表現としての作品だろう。僕はそれこそが崇高なものだと思う。従って僕はそういった作品を書きたい、自らの魂の表現をしたいと思っている。つまり僕は魂というものを信じているのだろう。僕はプラトン主義者だから、『パイドン』にあるように、魂とはideaと同族のもの、決して滅びないものだと考えている。また、キェルケゴールの『死に至る病』の冒頭にあるように、人間とは精神であると考えている。そうしてその魂を燃焼させることで、僕は生の実感を得たい、生きているという確かな自覚と充足とのない生なんて僕には死んでいるのと同義だから。ところで、その魂とは一体どのような性質を持っているのだろう。僕が思うに、魂には深淵がある、藝術家の持つ何かを創りたいという根源的な欲求は深淵的なもので、そこには一種の闇のような部分がある。それは例えば孤独や絶望や自己否定による欲求が求心力だったりする。そうしていつしか、その深淵的なものに魂の多くの部分が占められてしまう……。そういうある種の宇宙的な思想が僕にはある。その空間には様々の観念が星雲的に漂っている。深淵の欲求が、それらを紙上に定着させる試みが、僕に靭く働きかけるから、
 僕は書かなければならない。しかし、一体何を、そうしてどういう仕方でそれは行われるべきだろうか。僕は一体どのような主題から作品を書くだろうか。恐らくそれは福永武彦と共通するものだろう。愛と孤独(この孤独とは決してネガティヴなものではない)、生と死、それらの響き合いから生まれる魂の躍動を僕は主題にしたいと思う。それらは人間存在の根本問題だろう。そうしてそれらは僕の内的世界の星雲的な観念が漸く朧気に形を形成しつつあるような、不安定な段階に達したところだから、それらを注意深く探っては、その未熟な思想を強固なものにまで高める必要があるだろう。僕はそういう思想を基にした小説を書きたい。もっと正確に言うなら、活き活きとした魂を、魂の燃焼と深淵とを宿した小説を書きたい。そうしてその魂、僕の魂と読み手の魂とが感応し合うだろう。キェルケゴールの一八四三年の日記に「私の死後、著作は彼女(と私の亡父)に捧げられるべきだという私の意志は変わらない」「私の生存は、絶対に彼女の生存に重点を置くようにしなければならない。私の著作家活動もまた、彼女に対する栄誉と賞賛の記念碑と見做されなければならない。私は彼女をともどもに歴史の内に連れて行く。憂愁の中でも彼女を恍惚とさせる唯一の願いも、そこでは拒まれないのだ。そこで私は彼女と並んで行くのだ。私は勝ち誇って式場長のように彼女を導き、そして言う。どうか私達の大切な、愛する、愛しい、レギーネに席をちょっとお空け下さい、と。」というものがある。僕はこういう生き方をしたい。人を愛し、その信仰の基に自らのパトスを燃焼させ、充足させて生きたい。僕はその主体的な理念を持ち、それによってこの僕の弱い魂(僕は屡々生の深淵を見詰め、そうして自らの穢らわしさを、弱さを見る。かのヴァレリーは後年、「何故あなたは書くのか」という問いに対して、「弱さから」と答えた。僕は自らの孤独を、愛を信じる為に書かなければならない。そうしてその信仰の基に自らの魂を鍛えないといけない。それこそが僕の生だ、主体的なideaだ、僕が真に欲する生の実感だ。二つの魂の間に、運命的な力で生まれた美しい調和へと愛を注ぐことで、僕は飛翔するだろう、美しいあの人を愛することで僕は自らの汚れた魂を美しく高めることが出来るだろう、そうして僕は清く生き、そうして死ぬだろう、……僕は彼女を愛するように自分をも愛することが出来るだろう。しかし、そこには常に深淵がある、絶望がある、自己否定が、虚無の呼び声がある。それは不意と僕の精神を支配する。生まれ持った憂愁の中で、存在に対する驚きと不快との間で僕は自らの存在の苦味を噛み締める。……時には虚無思想へ陥ることもあるだろうが、僕の愛とideaの前の単独者としての孤独とが弁証法的に発展していくだろう……。そうして、
 僕の深淵の欲求(eidos)は次にその入れ物(hyle)を欲する、つまり小説として成立するための様々のものを欲する。僕には私小説を書こうという気持は全くなく、従ってこの僕の貧困な現実を芸術にまで高めることのみを欲する。それは理性的に一つの世界を構築するということで、その世界は現実的でありながら、現実以上に美しい、或いは悍ましいものであるべきだ。それが僕の基本的な考えであり、
 その先に手法的な問題が出来してくる。恐らく僕の選んだ主題は解決し得るものではないだろうから、様々の手法を試みて、それらを追い詰めなくてはならない。様々の手法を用いて立体的に表現する必要があるだろうし、時には自分の思想と正反対のものを追求するような極端な場合もあるかも知れない。つまり僕は多くの主題を取り扱うことの出来る人間じゃなく、生、愛、芸術というような尠い主題のみを扱うことになるだろう。そうしてそれらの主題は次第に掘り下げられ、それぞれ異なった仕方で表現されるべきだろう。僕は自らの生を、その思想を紙上へ定着させる試みと、愛の試みとに魂を捧げて生きてゆきたい。

 「愛と希望とが目指すところは決して成就することのない完全性である。それでも尚それを抱き続けるならば、それは人生の塩となり杖となる。」 ヒルティ『眠られぬ夜のために』より

【某月某日 Ⅲ】

 大学を終えて、河野晶は須坂亜里沙と肩を並べて自らの下宿への帰り道を歩んでいた、少女の存在を強く意識しながら。
 この日彼と彼女とは無人の教室を占めて雨音に耳を傾けながら三四限の時間を過ごしていた。しかし梅雨の鬱屈とした空模様が二人の精神に影響したのか、次第にどちらも黙り勝ちとなった。それは最早二人がいるというよりは、独りと独りとの存在があるといった方が正しいようだった。彼は窓際に佇んで呆けたように灰色の世界を眺めやって没我してい、少女はそこから幾らか離れた椅子に腰掛けて自らの足下を見詰めていた。しかし、それでも時折二人の視線はお互いの存在を認め合うように交わるのだった。
 四限の終りを報せるチャイムが鳴り響いて二人は一瞬その身体を戦かせたが、それは瞬く間に静寂によって掻き消された。静けさがこのまま永遠にでも続くのではないだろうか、と思わせるような靜謐な空気を取り除いたのは少女の方だった。
 ――雨、やむといいのだけど……、と少女は努めてあどけない声色で言った。
 彼は一瞬悲しそうな眼をした、自分には親密なものだと思えていたその雰囲気を、少女の方では気詰まりだと考えたような気がしたから。
 ――五限の終わりまでには止むでしょう、と彼は言った。
 少女はその味気無い答えを受けた後少し逡巡し、彼を見詰めながら、
 ――もし、……授業の後も雨が降っていたら、河野さんのお部屋で雨宿りをしてもいい? と訊いた。
 ――いいですけど、本くらいしか無いですよ、と僕は答えた。
 ――じゃあそれについてのお話をして欲しいな、と彼女は笑んで言った。
 彼女はその身を翻すようにして教室を出て行った。一人残された彼は雨が降り続くことを祈った後、一人で無人の教室にいるのは気味が悪いようだ、と考えて資料室へ向かった。そうして自らの創作ノートを開いた。
 彼の希いは天には届かなかったようで、五限の終る少し前に雨は上がってしまった。学科棟のベンチで煙草を吸っていると彼女がやって来て、
 ――ちょっと先生と話すから、もう少し待っていてくれる? と囁いた。
 彼は無言で頷いて雨の上がった後の鬱陶しいような雲を、その切れ間から降り注いでいる光の柱をぼんやりと眺めながら苦々し気に青白い煙を吐き出し続けた
 暫くして彼女の戻って来るのを見ると彼は立ち上がって共に歩み始めた。五限が終ってから少し時間が経っていたからバスは空いており、二人は無事隣り合って席を占めることが出来た。彼は窓側の方へ腰を下ろして外を眺めながら、雨が降り始めてくれないだろうか、と考えた。
 バスが駅に着き、二人は他の乗客の降りるのを待ってから下車して駅を目指した。と、不意に少女は駅の傍の公園を見詰めて立ち止まり、
 ――雨、上がっちゃいましたね、と言った。
 ――ええ、と彼は言って彼女の眼を見詰め、……来てくれないんですね、と続けた。
 ――行ってもいいの?
 ――君さえ好ければだけどね。
 少女は少し俯いて考え込んだ後、
 ――じゃあお邪魔しようかな、と呟くように言った。
 
 彼は下宿に着くとその扉を解錠して彼女を部屋へ連れ込んだ。その部屋は入って直ぐのところに台所があり、それと向かい合う形で浴室やら洗面所やらが誂えられてい、そこの部分を抜けると居間がある。居間は八畳のフローリングで、その中心には小さな座卓と洋服箪笥と、そうして寂れた鏡台とがそれぞれ慎ましく据えられていた。ところでこの部屋はやけに天井が高かった、四畳ほどの広さを持つロフトを備えていたから。彼はそのロフトを書斎兼万年床としていて、毎晩腹這いの体勢で花の形をしたライトの暖かな灯りの下で枕頭の書である『聖書』と『眠られぬ夜のために』とを日課として読み進め、それを終えた後に別の本へ没我するのだった。だからその目は常に隈でその下半分を縁取られていて、それが彼にアンニュイな魅力を与えている。
 彼は荷物を下ろすと彼女に座布団を勧めて座らせ、鞄の脇に置かれた袋から先程買い込んで来た飲み物と軽い食べ物とを机に広げると台所へ行き、グラスなどの食器を持って卓袱台を挟んで対面に腰を下ろした。二人はそれぞれ相手のグラスへ軽い酒を注ぎ合った後、それらを打合せて乾杯をした。彼は直ぐ様自らのグラスを乾かし、それを見て彼女は、
 ――強いんですね、と言った。
 ――ジュースみたいなもので酔える訣がない。君はお酒強いですか?
 ――私は直ぐに赧くなってしまうみたい、と彼女は言い、本は上にあるの? とロフトを見上げながら訊いた。
 彼はそこには今朝のまま床の取ってあることを思い出しながら、
 ――うん、と答えた。上がります?
 ――本の話を聞きに来たんだからね、と彼女は笑んで言った。
 彼は先に自らのグラスと少しのお茶菓子とを持って梯を上ってロフトの隅の小さな文机の上にそれらを置くと下へ戻り、彼女のグラスを持って再度上へ上がった。そうして彼は布団を軽く整えて彼女を待った。彼女は直ぐ様上がって来て隅を占め、彼はそれと正反対の隅に移動した。
 ――すごい、と彼女は本棚を見て言った。これ全部読んだのですよね?
 彼は誇るように本棚を眺めて、
 ――うん、と答えた。
 ――何かお話して、と彼女が言った。
 彼は口下手な男で、喋るよりも文章を綴る方が自らの思いを論理的に分り易く伝えることが出来ると信じていたし、文字を書いている時の方が自らの理性は冴えて働くということを知っていた。だから、話すのと書くのとの折衷案としてノートに図などを適宜書き込みながら喋り始めた。その御蔭で二人の距離は自ずと縮まった。
 小一時間ほど彼による文学講義が行われ、彼女はその熱心な生徒となった。で、不意と沈黙が齎された。彼はそれまで話すのに夢中だったし、その話には学術的な趣がありさえしたから、余りその少女と自分との置かれている状況は気にならなかったが、その時初めて自分と彼女とがとても近いところにいることが意識された。
 この人は本当に不思議な人だ、と彼女は考えた。仲の良い女性と一緒にい、しかもお酒を飲んでさえいるのに、延々と文学の話ばかりして、本当に不思議な人だ。文学だけを生き甲斐にして生きているのかしら。
 彼女はまじまじと彼の瞳を見詰め、彼がそれに気付いた瞬間二人の眼が合った。僕はこの少女を愛しているのじゃないか、と彼は考えた。そう思い当たった瞬間、彼は思わず身を引くや精神を平常状態に戻そうと考えて書棚から一冊の本を手に取った。
 ――これはジイドという人の、『狭き門』という小説なのですが、と彼は話し始めた。これは天上の愛を求めて地上の愛を拒んだ少女とその恋人との悲劇で、ここに「私の徳も、全くあの人の気に入られたいがためにほかならない。それでいて、あの人の傍にいると、その徳が崩れそうになってくる。」という文章がある。僕これに心を撃たれましたよ。
 彼は一旦そこで話し止めて彼女の方を見た。二人の視線が再度交わった。もしも今の引用を彼の本心だとしたらどうなるだろう、と彼女は考えた。徳というのは何だろう? きっと一種の倫理のような、生の規範のようなものだと思う。彼にとってのそれはきっと文学で、しかしその徳が崩れそうになってくるというのは……、もしかしたら彼は今自分と私とを欺こうとしているのかも知れない。徳が崩れるというのは背徳を言うのじゃないかしら。で、それが崩れそうになるのを懸命に抑えようとして無理に文学の話をしているのじゃないかしら……。その考えは彼女の傲慢な自尊心を気持良く擽った。
 ――それで結局その人の徳はどうなったの? と彼女が尋ねた。
 ――ああ、この女主人公は結局徳を守って死にました、と彼は答えた。彼女はその徳のために自らの命と二人の愛とを犠牲にしたんです。
 自分の思惑通りの答えが帰って来たから彼女は笑んで胸中にある、
 ――河野さんの徳はどうなるの? という質問を投げた。
 彼は彼女の瞳の妖しいような瞳を呆けたように眺めてから、
 ――僕は、どうだろうね……、と言った。
 再び沈黙が落ちた。彼女は傍にある彼のノートを手に取ると、そこへ「文学以外で何か言いたいことはない?」と書いた。彼は自分がそういった話をしかしていないことに気付き、それを恥ずかしく思った。しかし急にそんなことを伝えられて、彼は会話の種を探すのに少し苦労をした。
 ――最近楽しいことはあった? と彼女が助け舟を出した。
 ――最近ね……、そういえばこの前読んだ小説が、と言って彼は口を閉ざし、また文学じゃないか、と自嘲した。
 ――じゃあ、昔と較べて最近は楽しい? と彼女は訊いた。
 ――うん、と彼は答えた。
 ――どうして? と彼女は重ねて尋ねた。
 昔と今との違いは君と出会ったか出会っていないかだろう、と彼は考えて、彼女が何を問いたいかに思い当たった。
 ――君が……、と彼は言った。
 彼はノートを手に取るとそこへ、円を一つ書いてその中に〈僕〉という字を入れた。その後にその円を四角で囲み、その四辺を二重三重になぞった。彼女はその図を見るために彼の傍に寄ったから、二人の肩は直ぐにでも触れ合いそうになった。
 ――前の僕はこうでしたね、と言った。僕は壁を作って誰もその中に入れやしなかった。
 次に彼はその四角の中に新しく円を描いて、その中に〈亜里沙〉と書き入れた。
 ――今はこうです。
 彼女はその図を満足気に見詰めたがしかし、
 ――ああもう! と言った。
 愈々彼はノートに〈Je vous aime mais peut-être〉とだけ書いた、彼女がフランス語を読めないと知っていたから。確かにそうだが、しかし愛しているかどうかは分らない……、という風に彼の論理は働いていた。彼女はその横に、〈どういう意味?〉と書いた。彼はそれを読んだ後、〈僕は君を好きです〉と改めて認めると、それを読んだ彼女は〈私もだよ〉と書いた。で、彼は直ぐ様ノートを閉じて彼女から離れた。
 ――近付いてもいいんだよ? と彼女は言った。
 ――さっきも言いましたが、僕は自分の徳の崩れるのが怖いんです。理性を無くしたくない。僕は常に理性的でありたい。
 ――今だけはそれを捨ててしまえないの? と彼女は問い掛け、その徳を踏み越えられたら……、と心の中に呟いた。
 ――無理です……、僕は理性的に人を愛していたい、と彼はきっぱりと言い切り、そうして、しかし僕の愛しているのはきっとこの少女じゃない、と幾度も自らへ言い聞かせた。
 彼は布団の敷かれたロフトにて可愛らしい少女を見るともなく眺めながら、いくら愛せども人は孤独なのだ、と考えた。こうして鎖された空間に男と女とがいて、そうして若し何らかの営みがあったとしても、それは何の意味もを持たない。何れはお互いのエゴとエゴとを衝突させて、そこにどうしようもない人間の身勝手さ――愚かさと惨めさとを見るだけだろう。地獄とは他人のことだ、他人こそが地獄なのだ……。しかし、僕はこの少女への肉体的執着を持ってしまっている。僕は卑怯だ……。

【掌編 海】

 一人の大学生が都会を後にして故郷へと向かっていた。数時間電車に揺られ続け、やっと県境を越えたのを彼は窓の外の景色によって認めた――トンネルを抜けた瞬間暗闇が展けて、輝かしい太陽とその光を眩しいくらいに反射している大きな海とが見えた、それはムンクの『太陽』の絵とよく似ていた。
 彼の生家はその海の傍にあるから、彼の幼い頃は屡々その海で遊んだものだったが、しかし様々の苦しみがその内部に出来し始めてからというもの、彼はその暗い海をぼんやりと眺めてばかりいた。だから彼の心の中では、海は常に暗いものとしてその面を搖蕩わせていた、その奥底に様々の観念の犇く深淵を秘めながら。
 目的の駅に着くと、彼は粗末な旅行鞄を網棚から下ろして立ち上がり、その構内を懷かしむように見遣ってから降車した。その時、後ろから声を掛けられた。振り返ると、旅行をしているのだろうか、多くの荷物を持つた華奢な若い女性が立っていた。
 ――すみません、あのう、私、この旅館へ行きたいんですが……、とその女性は言った。
 そうしてその旅館の名前と住所との書かれた手帳の頁を彼に見せた。長く綺麗な髪の毛から、優しい花のような香りが香った。
 ――ああ、そこなら僕の帰り道の途中にあるから、好かったら案内しますよ、と彼は言った。
 二人は駅を出て歩き始めた。最初のうち彼は普段通り足早に歩んでいたが、女性が小走り気味で附いて来るのに気付くと微かに笑んでその歩調を緩めた。彼が女性の方を見遣る度に二人の視線は交わって、それが彼を幸福な気持にしたが、しかし彼には好い話題を見付けることが出来ず、気不味さのようなものをも感じるのだった。暫くそういう曖昧な時間が続き、それを打開しようと彼は考えて、
 ――旅行ですか? と不意に訊いた。
 その問いに女性は逡巡し、困ったような顏をして彼を見詰めたものの、彼女の方もまたこのぎこちないような空気を払拭しようと考えて、
 ――ええ、そうです、と少し恥じらいながら答えた。……絵を描こうと思って。
 ――いいですね、絵が描けるっていうのは。時に何を描くかはもう決めているんですか?
 ――海を描くことにしました。電車からも見えたんですが、本当に綺麗なんですね。
 ……ということは、僕の見たあの光景と同じものをこの人もまた見ていたのじゃないか、と彼は考えた。そうして自らの心に何か美しいものの萌芽するのを感じながら、
 ――とても美しかつた、と言った。まるでムンクの絵のようだった。海は本当に良いです。彼は女性の形の好い澄んだ瞳が純粋な光を湛えているのを認めて、稀に蜃気樓の見られる日があるんです、と続けた。僕何度も見たことがある。
 女性は彼の瞳を覗きこむように見上げて、
 ――蜃気樓ですか、見てみたいです、と言った。
 ――じゃあ、取って置きの場所があるから、それをお教えします。見られるかどうかは分りませんがね。
 彼は鞄から手帳とペンとを取り出し、歩きながら簡単な地図を書いて女性に渡した。その時、二人の手と手とがほんの一瞬だけ触れ合った。彼女は強いてそのことを気にしないようにして、
 ――ありがとうございます、きっと行ってみますね、と礼を言った。
 話をしているうちに旅館の前に着いたから青年と女性とは別れた。そうして彼は改めて帰途に就いた、彼女との出会いによって生まれた様々の幸福な空想を弄びながら。しかし、彼は自分の臆病なことを意識せずにはいられなかった。
 正々堂々と、また会いたいと伝えることすら僕には出来なかった、と彼は考えた。僕は自分の気に入っている場所を教えることで、彼女と再会する可能性を残すことをしかし得なかった。その場所を訪ね続ければもしかしたらだが再び彼女と会えるかも識れない、その可能性は充分にある、しかしそれは可能性を偶然へ委ねる非実存的な態度だろう。僕には主体的に輝かしい未来を創造していこうという意志が、強さがないのだ。このまま何もしないで彼女を諦めるということは、全ての幸福を、輝かしい可能性を放擲するのと同じだろう、そうしてそれは僕の弱さの証明だろう、しかし。……僕にはこうして徒に空想を弄んでいることしか出来ないのだ。それは何にもなりやしない。確かにその幸福の空想は美しいかも識れない、しかしそれは決して空想の域を出やしない(だからこそ美しいのだろう、叶わぬからこそ願うのだろう)、しかし。まだ間に合う……、今引き返せば……、彼女と会えば……、そうして約束を交わせば……、しかし。
 意識的にか無意識的にか、彼は海沿いの道を歩いていた。今や海は茫漠たる深淵となって彼の視界を満たしながらに揺蕩っていた、月の光をその面に湛えて。それは確かに美しかったが、彼には最早魂の飛翔を感じることは出来なかったし、それを美しいとさえ思えなかった。彼は歩道から外れて岩の連なり合う波打ち際を慣れた足取りで進み、座り易そうな小岩を見付けてそこへ腰を下ろすと海を眺め始めた。
 愛するという行為は常に個人的な行為であり、愛とは孤独の中でのみ見ることの出来る美しい錯覚的な観念なのじゃないか。孤独の中にいる間にのみそれは可能性であり、試みられた瞬間、それは不可能性に変容してしまうのだ。そうして、愛するという行為はégotismeによるものだろうから、その愛の深まるのに從ってその孤独をもより一層深めるのだろう。つまり、その究極の形態に於いて、愛するとは真に孤独の行為なのじゃないか。そう考えると愛というものは孤独の中にしか無いものにさえ思えてくる。その孤独の中でなら愛は錯覚的観念から変容して、一つの持続的観念へまで亢まるのじゃないか、そうしてそれこそが純粋な愛の形なのじゃないか……。僕は自らの孤独を見詰めてそれを強め、そこにある(筈の)愛のみを信じて生きていく。……それなら一層僕はあの女性を愛するべきなのじゃないか(しかし、……もう遅過ぎる、もう決して間に合わない)。
 寄せては返す果てしないような波の響きが彼の空想を洗う(その輝かしい未来を彼は試みることが出来なかった、そうして今後も決して……)。彼の美しかった空想は徐々に色褪せながら沈み込んでいく、海の底へ、忘却の底へ。

【某月某日 Ⅳ】 

 河野晶はその日の昼過ぎに大学へ到着すると構内の並木通りの木陰に松枝木綿子の姿のあることを認めていたが、しかし声を掛ける勇気が出なかったから一本煙草を吸った後にこの場所へ再び戻り、その時未だ彼女がいたならきっと声を掛けようと決意した。で、再度並木通りへ至った時、果たして彼女の姿はあったものの矢張り彼は酷く逡巡した後漸く、
 ――松枝さん、と声を掛けた。
 彼の声を聞き、桜の木に凭れてその影の落ちる芝生にハンカチを敷いて寛いでいた彼女は振り向いて微かに笑んだ。そうして文庫本を閉じて膝の上に置き、
 ――河野さん、こんにちは、と言った。
 彼は笑んで挨拶を返した後、彼女の傍に腰を下ろしてその少し癖のある髪の毛を見詰めながら、
 ――君は綺麗な髪の毛をしていますね、と言った。烏の濡羽色とでも言った感じだな。
 一陣の風が吹いて少女の髪の毛を靡かせ、彼女はそれを手でそっと抑えた。彼はその様子を見ながら強い幸福を味わった。
 ――君この後の授業は? と彼は訊いた。
 ――あとは四限を受けたら、今日は終り。
 ――じゃあ、僕待っているから一緒に帰ろう、と言って彼は返辞も聞かずに立ち去った。
 この日、彼は三限以降の授業を取っていなかったから大学を出ると暫く気儘に歩みを進め、いつしか掘割に沿って作られた道を歩いていた。彼はこちら側と向こう岸とを繋いで掛けられた橋を見付けてそれを越えた。と、その時不意に彼を不思議な情緒が襲った。それは親和感とでも名付けるべき雰囲気を彼へ与え、忽ちに彼を過去と現在とが同時に重なり合っているかのような時間へ導いた。あの時、僕はM…を待つ侘びしさを紛らわそうと考えて散策を始め、そうして小川に掛けられた可愛らしい橋を渡ったのだったな、と彼は意識した。と、それが切っ掛けになって間歇泉の吹き出すように彼の内部を垂直に様々の風景と、それに付随する記憶とが浮かび上がった。
 ……文学サークルの部室――僕はそこで会話する人々から離れていたがしかし一心に一人の少女を見詰めていた、彼女は痛い程にその頬へ視線を感じていただろう、それ故にその頬は薔薇色に染まっていて彼女はより一層美しくなっていた、僕に見られることつまり愛されることによって彼女がその美を開花させたことが僕を悦ばせた。
 ……走る列車のボックス席――既に列車はN…県へと差し掛かりつつあり目の前の座席では彼女が静かに寝息を立てていた、僕はそれを自らのノオトに簡単にしかし丁寧に描写してそのノオトを鞄の奥に押し込むと読みさしの文庫本を取り出した、暫く彼女の寝顔を盗み見ながらそれを小説のヒロインになぞらえて僕は一人で楽しんでいたがやがて彼女は列車の振動で目を覚ましたから僕は彼女の寝顔を盗み見るのを止めて小説に没頭しようと努めた、しかし僕は矢張り彼女の欠片を小説の中から探し出してそれを盗み出そうという試みを続けていた、列車が目的地に着くまでの間彼女は僕の精神世界の中で笑い泣き怒り様々の表情を僕に投げ掛け続けた。
 ……大学構内の隅の四阿――そこで僕は彼女を待っていた、こちらの空は穏やかに晴れていたが向こうの空は薄紫色に陰っていた、それを沈み行く太陽が透かしていて幾らか哀愁の漂う趣があり僕はその哀愁を僕の憂鬱に重ね合わせて彼女のことを無意識的にその純粋経験風な僕の内部に浮かばせながら煙草を喫んでいた、暫くして僕は彼女がいつの間にか僕の背後に立っているのを感じた、僕はいつも通りその温かい彼女の空気に包まれているという心地良さに浸りながら黙ってそれを味わっていた。
 数々の思い出が彼の心の中で万華鏡のように展開した。その全てが彼は彼女を未だに愛しているということを証すると同時に、彼が今や嘗ての情熱を失い、それを別の対象へ向けて頽廃の中にあることをも証していた。

【三月二十六日 及び回想(夏Ⅱ)】

「もうあとひと駅だね、」と冬子が電車の扉の上部にある表示を見て言った。
 伊東真一は膝の上に置かれた文庫本をコートのポケットに突っ込み、立ち上がって伸びをすると、網棚から二人の荷物を下ろして降車に備えた。直ぐに電車は駅へ滑り込み、彼は先程と同じように二人分の旅行鞄を持って冬子を促したが、今回は向かいのホームに停車している電車へ乗り込めばいい訣ではなかったから、彼女は困ったような顔をして、
「どこへ行けばいいの?」と訊いた。
「ああ、そうか。今度は一度上へ行かなきゃいけないね、」と答えた。
 彼は冬子へ荷物の片方を渡して彼女を先導するように混み合った構内を歩み、階段を上るとその細腕から鞄を預かった。そうして連絡通路を進んだ後M…線のプラットフォームへ至った。寒さを凌ぐために待合室へ入り、暫く待っていると彼にとって見慣れた外観の車両がやって来て二人はそれへ乗車した。これまでと違って車内は混み合っていた。彼はA…駅までは向かいの扉の開かれることを知っていたから、扉付近へ冬子を立たせて自らは彼女と乗客とを区切るように位置を占め、窓外を眺め遣っては見知った光景のそこにあることから安心を感じ、また時折は車外からの日差しを受ける冬子の横顔、その俯き加減の眼差しを、少し尖った理知的な鼻先を、そうして未だ彼をしか知らないあどけない唇を、それぞれ順々に偸むように見遣った。
 電車が駅に着き、多くの人々が降車した後、それを埋め合わせるように人々が乗り込んで来て、その様子を眺めながら彼はその中に冬子以上に美しい女性のいないことを喜んだ。そうして、不意と河野の死とは無関係に殆どの人はその生を営んでいるという当たり前の事実に思い当たり、河野の死んだ今、呑気に冬子の美しさを讃えている自分が酷く冷酷な人間に思えて来た。しかしその罪悪感を凌ぐ程に僕は傍らの少女を愛しているのだ、と彼は考えた。〈愛は死のように強い〉のなら、何の不思議もないことじゃないか。しかしそう考えるなら冬子と較べて僕は河野を愛していなかったということになるのじゃないか。共に文学を試み、青春を生き、その苦しみと楽しみとを共有しあった河野、その死は自らの死と同義だった筈じゃないか……。これは僕が既に彼の死をどうしようもない事実だと認めた故だろうか、それとも冬子を愛することで希望を見ている故だろうか。
 電車のアナウンスが伊東真一を思索から引き戻した。彼は「降ります、」と小声で言いながら冬子を従えて何とか電車を出た。普段なら自室までの道を歩くところだったが、疲れていたし、冬子を歩かせるのも憚られたからタクシーに乗ろうかと考えた後、彼は下宿の傍にバス停のあったことを思い出して市バスに乗り込んだ。それは電車とは打って変わって空いていたから彼らは最後列の五人掛けシートを占めることが出来た。バスは運転手の物憂いような不明瞭のアナウンスの後に走り始めた。
 歩きでは二十分程掛かる道のりも、バスでは五分と掛からなかった。コートのポケットからキーケースを出して下宿の扉を開くと冬子を先に中へ通し、彼は玄関にあるブレーカーのスイッチを上げた。と、暖房器具と冷蔵庫とが唸りを上げて動き出し、電灯が二三度明滅を繰り返してから灯った。部屋は旅行の前日に掃除をしておいたお陰で予想よりも綺麗なくらいだった。
 彼はコートを受け取り、それをクロゼットに掛けてから、西向きの出窓からその背面に光を受けるよう置かれた読書用の一人掛けソファへ冬子を座らせると、
「喉が渇いたら珈琲をでも自分で淹れてね、」と言った。
 そうして彼女の頷いたのを認め、時計を見遣ってその時針が六の辺りを指しているのを認めながら、
「今から河野の実家ヘ行ってくる、」と続けた。「きっと九時には帰ると思うけど、……待っていられる?」
「ええ、」と冬子は頷いた。
 彼は直ぐ様着の身着のままで部屋を飛び出すと近くのバス停へ行って、丁度やって来たバスへ乗り込んだ。そうして駅へ至ると河野晶の実家のあるK…駅方面への電車を待って乗車した。と、急に親友の死が身近に感じられ始めた。愈々河野の死の証拠と自分とは対面するのだ、と彼は考えた。ところで、河野がひたすら苦しみ、そうして苦悩の裡に死んだとするなら、その人生に何の実りがあっただろう、何の意味があっただろう……。せめて何かを成し遂げてから死ぬべきだったのに。しかし、その死は尠くとも松枝さんの精神には深い傷痕を残したのじゃないか。人生の盛りを生きる若い少女には人生の明るい面のみが見えていたことだろう。それは辛いことも悩みもあっただろうが、彼女は人生を愛し、そうして人生から愛されていただろう。彼女は未だ夢を見て好い筈だったのに、しかし河野の死によって彼女は生の深淵を意識しながら生きることを強いられ始める……。と、不意に別のメッチェンの名が僕の意識へ垂直に浮かび上がって来た。

 ――で、君はあの少女を愛しているの? と僕は訊いた。詳しく話してよ。
 河野は彼女の運んで来たプリンに口を付けてから、
 ――どうだろうね、と言い、ところで君は、他人の考え、価値観を変えることは可能だと思う? と質問を投げた。
 僕は一瞬煙に巻かれたようにも思えたが、きっとその他人というのは須坂さんを指しているのだろうな、と考えて、
 ――難しい問題だね、と言った。元々の傾向を靭めるのではなく、考えを完全に変えさせるということでしょう? 百八十度変えるとかいうのは、相手が未だ人格の形成しきっていない子供なんかだったりするなら可能かも知れないけど、まず無理だと思うね。
 ――まあ僕もそう思う。他人の考え、思想を変えようだなんて、不可能だし烏滸がましいことだろうね。それは人間に出来ることじゃないし、強引にそうしようというのは赦されることじゃない、それを行い得るものがあるとすれば神くらいだ。
 河野はプリンを一口食べ、煙草に火を点けると、
 ――でも、と話を続けた。僕らが小説を試みるのには、読んだ人の精神を啓蒙しようという考えがあるのじゃないかな?
 ――読んだ人に、ああ楽しかった、ああ悲しかったと思わせるだけのものじゃなくて、その精神を変えるような小説を書けるのなら書きたいけどね。で、君の言う、読んだ人っていうのは不特定多数の読者? それとも、魂を改造したい特定の誰かがいるの? 
 ――そうやって直ぐに問題を身近なところへ持って行こうとするのは止してくれないか……。下世話だよ。
 ――例えばキェルケゴールにとってのレギーネオルセンとかさ、そういう風に愛する人のために書くというのは素晴らしいことじゃない。誰かいるんでしょう? 白状しなよ。
 ――僕は須坂さんの魂を僕好みに改造したい。これで満足した? なんていうかな、君は知っていると思うけど僕は我が強いタイプだからさ……、言ってしまえば彼女を支配したいんだろうね。でも、恋愛関係に於いてはより相手に惚れている方が弱いんだよね、惚れた弱みってやつさ。僕はそれに我慢がならないんだ。彼女は僕の言うことに従ったことが無い。いつも僕が哀れな目を見ているんだ。
 河野は苛立たしそうに煙草を圧し消した。僕はその彼の指先の震えているのを横目に見ながら珈琲を飲んで、
 ――自我と自我との衝突だね、と言った。万人の万人に対する戦いだ。
 ――うん、最初の裡は彼女の我儘も可愛いものだったんだけどね……。まあいいや、話を戻そう。……僕は啓蒙小説を書きたいんだ、読んだ人の魂を浄め、善に、純粋な方へ向かわせるようなね。その為には確かな主題を持ったものを書かないといけない。そうしてその小説内に試みられる意識的な生は、読者をして自らの生を、その考えを問い直せなくてはいけない。……それくらい実存主義的なものを僕は書きたいよ。ただ、これは換言すれば回心を起こさせる程のものを書かなければいけない訣で、そんなことはやっぱり不可能なんだろうか。
 ――全ての人が良識を持っていて、そうしてその魂の性質が善だとするなら、論理的に正しいことを書くことでその試みを果たせるだと思うけど……、つまり一足す一は二であるように、論理的に正しいことを主張することで、相手がその答えを三だと思っていても、その人が理性を持っていさえすれば、答えが二だということに納得するだろう。でも君の書きたいような物事ってすんなり割り切れることでもないでしょう?
 ――まあね……、でも僕は僕の思う様々のこと、生や愛や芸術やについて真摯に書かなければならないと信じるよ……。
 ――そうね、僕もそう思う。……完全に自分の考えに同意させるのは無理でも、アウフヘーベンなら可能なのじゃないかな?
 ――それは勿論そうだろうね。
 そこで議論は停滞して河野はプリンを食べ始め、僕はそれを小休止の合図と取ってパンケーキにフォークを刺すとそれを一口で食べた。河野はプリンを食べ終えると、例の少女とは違う店員が丁度傍にいたから彼女を呼び付けて珈琲のお代わりを頼み、新しく煙草を取り出して燻らせ始めた。
 ――君、最近調子はどう? と河野が不意に尋ねた。
 ――何の? と僕は問い返した。
 ――麻雀だよ、雀荘では勝てているの?
 僕は懐から手帳を出して今月の収支成績の記されたページを開くとそれをテーブルへ置いた。
 ――負け越してはいないようだね、と河野が長い前髪を分けながら言った。
 ――うん、と僕は河野の研ぎ澄まされたような形の好い鼻の線を見ながら言い、彼の瞳を見詰めながら、何とかプラスだけどね、難しいよ、と続けた。僕は理詰めで打ってはいるんだけど、場にはやっぱり波があるみたいで、それを上手に捉えた人が勝つね。
 ――麻雀は楽しいね、と河野は話し始めた。将棋やら囲碁やらでは自分より上手い人には勝つことは殆ど無理だけど、麻雀には誰でもが勝利を得る可能性があるから良い。定石はないし、経験の差はあっても、場は常に新しい混沌だし、ゲームが始まるや経験の差も全て運なんかを含めた不条理に収斂されるんだから。
 ――うん。で、先の見えない不可知の状況を共有しながら、自らの理性による、様々の局面に応じた判断を信じて冷静に運命を競い合えるから楽しいんだよ。そうだ、久しぶりに今から打ちに行かない?
 河野は一瞬戸惑ったような表情をした後、
 ――持ち合わせがないからな……、と答えた。
 と、須坂さんが静かに歩んで来て僕らのテーブルへ寄ると、彼女は二杯の珈琲を給し、更に河野には小さな紙片を渡した。そうしてトレンチに空いた皿などを乗せて何事も無かったかのように去って行った。河野はその折り畳まれた紙を丁寧な動作で広げると一瞥してから僕にも見せた。そこには、〈十七時に上がるから待ってて。お友達に私を紹介して欲しいな。その後良かったら少し散歩でもしない?〉と女文字で記されていた。河野は左手の腕時計をちらと見遣って、
 ――あと一時間か、と溢した。勝手なものだね。
 ――僕は全然待って好いよ。それで挨拶だけしたら、邪魔だろうし麻雀をでも打ちに行くよ。
 ――そう、悪いね……。
 特に話すことはなくなったから、僕らはそれぞれ文庫本を取り出すとそれへ没我した。時計の短針が五を指して少し経った後に須坂さんはやって来て河野の隣を占ると河野と二言三言小声で会話した、そうして、
 ――初めまして、と言って笑んだ。
 彼女の印象は快活で、それは先程までの無愛想さと対照的に思えた。きっと仕事中に声を掛けてくる男は多いだろうから、それ故に職務を全うしている間は強いて無愛想なのだろうな、と僕は考えた。と、バイトの同僚の少女が須坂さんを呼び、彼女はカウンターの方へ向かった。
 ――僕さっきあの娘を支配したいと言ったでしょう? と河野は周りを見渡した後に小声で、そうして早口で言った。これは愛じゃない、一種の執着のようなものだと思う。僕はこうしている今も、君に彼女を取られやしないかと気が気じゃない……。
 ――大丈夫だよ、確かに美人だとは思うけど、そんなことしやしない。そもそも彼女に取って僕は君の友人というに過ぎないでしょう。
 用事は簡単なものだったのか、須坂さんは直ぐに戻って来た。僕はお座なりに挨拶を済まし、少しお喋りをした後河野に小銭を渡してその店を出た。
 どうも調子の乱れる少女だったな、と僕は商店街を歩きながら考えた。三人で雑談している間、辺りを憚るようにはしていたものの彼女ははしゃいだように振る舞っており、河野はそれを閉口したように眺めていた。彼女と河野とは外見の調いは釣り合ってはいるが、その精神は酷く不似合いなのじゃないか。そういえば何処かで、神経衰弱者がその鋭敏な精神故に薔薇の香りから頭痛を引き起こすという戯談だか本当だか掴めないような話を聞いたことがあるが、それと似たような印象をさえ僕は覚えた。
 色々なことを考えながら歩いていると気が付けば雀荘の前へまで至っていたから、僕はその扉を開け、知り合いに挨拶をするなどした。と、河野が雀荘へ入って来た。
 ――どうしたの? 須坂さんと一緒じゃないの? と僕は訊いた。
 ――数分話をした後、さっき話しかけた娘がいたでしょう、彼女はあの娘と出掛けて行ったよ。さっき彼女が呼ばれたのは、一緒に遊ぶ誘いだったらしい。……馬鹿にしていやがる。こんなことばかりだ。もう慣れたけど。
 ――不幸に慣れるのは好くないよ。君何か言ってやった?
 ――言ってない、彼女が僕を軽んじて約束を反故にするのは今に始まったことじゃないからね。言うだけ無駄さ。伊東、金を貸してくれ、勝って返すよ。

【日記 断片的抜粋】

 Ⅰ

 ローマ信徒への手紙、第七章、九、十節、わたしはかつては律法とは関わりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返ってわたしは死にました。そして、命をもたらすべき掟が、死に導くものであることが分かりました。

 過去に悪を犯しておりそれ故の罪意識を持ちながらにして誰かを愛し始めた場合、その罪の意識の重さは愛の意識のそれと正しく比例する。というのも、その愛の意識の分彼は罪を重く見るから(愛するあの人と較べて自分はどんなにか穢れているだろう)。そうしてその結果として罪を贖い得る――彼の魂を善へ向け得る愛もまた亢まる。従ってその愛はある種のアンビバレントの様相を呈する。
 彼は自らを罪的存在と規定し、想い人を善的存在と規定する。その距離は正に絶望的な断絶であり、彼はその不可能に絶望しながらも、しかし愛さずにはいられない。

 いや、僕はもう書くまい。何故なら僕は彼女を好いているが、しかし愛してはいないからだ。彼女への僕の思いは執着というに過ぎやしないだろう。僕は彼女の幸福よりも自らの幸福を希う。もし赦されるなら、僕は彼女を抱きたい、彼女を所有したい。しかしこれは愛じゃなく性慾によるものだろう。僕は自分の醜い姿を見たくはない。愛することで人はその精神を美しくし、それによって自らの罪的意識から解き放たれて全てを愛することが出来る、真の信仰に至ることが出来る、というのが僕の根本的な考えだが、これは当て嵌りそうもない。僕は彼女を好くことで自らを、そうして彼女をも、更には他人もを憎み始めている……。愛することで自らを善へ向かわせることが能わないのなら、その愛の属性は悪そのものだろう……。僕に愛せるのは……。
 ところで僕は原罪というものをそのまま自らの罪として引き受けることが出来るほど信仰心に篤くはない。アダムとイヴとの犯した罪が僕らへまで引き継がれているというのはつまり、人の魂には悪を犯し得るという可能性としての罪が宿っているということだろう。そう考えるなら、人はその可能態としての罪が現実態へまで至らぬよう常に善を志して生きなくてはならないということじゃないだろうか。若し罪をすでに犯しているとしたら……、僕はその罪が贖い得るものだとは思わない、罪は魂に深淵を生み、そうしてその深淵はさらなる深淵を呼びながら拡大を続けるだろう。
 つまり一度悪としての性質の感情を持った以上、僕には最早救済の道はないということになる。ああ、刹那的な衝動から彼女に対してある種の思いを持ってしまった以上、僕は汚れてしまった、堕落してしまったのだ(いや、堕落はもっと早くから始まっていた筈だ)。もう遅い、もう全ては定まった。僕は決して自分を赦せないだろう……。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」しかし僕には最早決して自分を愛すことなど出来ないのだ、自分を赦すことが出来ないのだから……。これが僕の罪だ。
 
 Ⅱ

 マタイによる福音書、五章、二十九節、三十節、もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましだからである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちないほうがましである。

 僕を躓かせるものは、僕の精神を措いて他にない。僕は地獄に落ちるべき人間だ……。

 しかし僕は彼女から誘われると、浅ましい期待を持ってその誘いに応じてしまう。そうして決して報われることはない。彼女は既のところで僕から身を躱す。僕は何をしているのだろう。惨めそのものじゃないか。自分でもおかしいと考えていながら、慾望に抗えないで彼女を所有しようと考え行動し、しかしそれを徹底的に拒まれているだなんて。
 今日はそんな僕を慰めるように、松枝さんが僕のお相手をしてくれた。松枝さんは彼女の親友で、傲慢なところの全くない謙虚で気弱な優しいお嬢さんと言った感じ。もし、彼女に執着せず松枝さんをのみ愛していたら僕の苦しむ必要はなかっただろう。若しこんな人と恋をしたら、どんなにか幸福だろう。しかし、それでも矢張り僕は自らを赦せないだろう。僕の愛することの出来る女性は……。
 愛することは選ぶこと、自らの魂を賭けることだ。愛するという行為は責任を持って行われるべきだ。愛する前提として、自分の選んだ相手を一生愛し続けることが望まれるだろう。途中でより良い人が見付かったからといって別の人へ鞍替えするなんてことは相手と、そうして自らとを裏切ることであり、赦されざるべきなのだから。僕は贖い得ない罪を犯した……。

 Ⅲ

 レビ記、十九章、十八節、……民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。

 僕は自分を愛せないのだから、他人を愛そうとしてはいけない。しかし、もし自分が愛されたとして、それを拒むことは……。いや、僕は人を愛してはいけない。愛は不可能性だ。人間と人間との間に愛なんて不可能なのだ。人間は弱い、愚かな存在だ。そうして人は常に孤独なのだから、その愛はお互いにお互いの幻影を見合っているに過ぎないだろうし、その場合の愛の観念はそれぞれ異なって当然だろう。もし人と人とに正しく愛し合うことが可能だとするなら、それはお互いが共通の愛の観念を持っている場合に限られるのじゃないか、例えばお互いにキリスト教を信仰している際など……。
 しかし僕には自らを愛することは出来ないし、自らの孤独をキリスト教へ委ねることも出来ない。傲慢な、ペシミストな僕……、

 マタイによる福音書、六章、三十三、何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。(……)だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。

 神の国と神の義と……、しかし僕はクリスチャンではない。
 僕は未来の絶望をしか見据えていない。幸福を幸福として味わうことは能わず、その後の幸福の泯びをしか僕は見ていない。好き好んで思い悩み、煩い、自らの生を呪い、その呪われた生の中で藻掻くことだけが僕の生なのだ。それは僕の悲劇的のヒロイズムとでも言うべきもの、愚かなことだろう。しかし、しかし。
 僕に最も共感出来る思想はジャンセニスムだ。人間を弱いもの、惨めなものとして見、どんなに善い行いをしても、徳を積んでも、それが僕らを清めることはない。人はその生の始まりから徐々に自らを汚して行くのじゃないだろうか。様々の苦労を経て、次第に希望を信じることを忘れ……、
 Alle Sehnsucht will nun träumen,die müden Menschen geh'n heimwärts,um im Schlaf vergess'nes Glück und Jugend neu zu lernen! 全ての憧れは夢見る、疲れた人々は家路に就き、忘却の底の幸福と若き日々とを、眠りの中で取り戻そうと試みる!
 眠り……、僕は眠りたい! 生きるよりかは眠りたい! 死のように甘美な眠りの中に……、
 ああ、僕の魂の憩える場所……、それは一体何処だろうか。

【三月二十六日】

 葬儀場に着いた伊東真一は松枝木綿子に迎えられた。その悲しみの表情は胸を撃つ程美しかった。そうして彼は彼女の案内で遺体の安置されている一室へ通され、河野の亡骸と対面した。その顔はうっすらと死化粧されていて、やはり美しかった。しかし、もう何も出来やしない死体が幾ら美しくても、それには何の意味もないだろう、と彼は考えた。仮に死に意味があるとしても、故人が何も成し得なかった場合に於いてはネガティヴなものでしか有り得ないだろう。それなら死んで良い訣がない。どうせ死ぬなら何かを成し遂げた後に、そのことを誇り、積極的な、ポジティヴな動機から死ぬべきだ。河野は何もしてやしない、……その生に於いて悩み苦しんだ後の絶望からその生命を断ったというに過ぎないのなら、それは文学的な感傷を呼び起こせども、やはり何の意味もない。その死は徒に周囲の人を傷付け、悲しませるだけだ。間違った生はあっても、決して正しい死など有りやしない。決して正しい死の動機なんかある訣がない。死んでいい訣がない。僕らは生きている限り、生き続けなければならない。善の方を目指して藻掻き続けなければならない……。死は、周りを傷付ける暴力だ。身近にいる人への、愛する人への裏切りだ。河野、君は松枝さんのあの悲しみを想像するだけの理性さえも持っていなかったのか、君は愛する人がいる限り、殺人や自殺やの罪を人は犯し得ないと言った。それなのに……、君を愛する人は確かに存在したのに。……松枝さんのような美しく若い女性には、人生に愛され祝福され、そうして生を愛する権利がある筈だ。しかし彼女は河野の死によってその人生に大きな痛手を受けたことだろう、これから先、河野の死は一つの通奏低音となって彼女の生に付き纏うだろう……。
 河野の安らかな顔を眺めた後、伊東真一は焼香を済まして煙草を喫み始めた。と、静かに麩の開く音がして、お盆にお茶を乗せた松枝木綿子が入って来た。彼は曖昧にお悔やみの言葉を述べると、河野はいつ死んだのかを尋ね、葬式の手伝いをしていることを労った。
「伊東さん宛の遺書があります……、」と言って彼女は封筒を彼に渡した。
 彼はそれを受け取ると直ぐ様中身を取り出した。そこには、〈本やら日記やら反故にした小説やら、兎に角僕の部屋にあるそういったものは全て君にあげる。少しでも君の創作活動の結実に貢献することが出来たらと祈る。伊東、僕を赦してくれ、僕はもう全てが厭になった、僕には生きる勇気は無かったが、死ぬ勇気はあったようだ。〉と見覚えのある、神経質な小さい字で綴られていた。
「間違っている、何も死ぬことは無かった、」と誰に言うともなく彼は呟いた。
 松枝木綿子は彼のあげた線香の火が絶えかけているのを認めて新たな線香に火を点け、焼香台にそれを差し、慈しむように河野の死に顔を眺めた。彼女の所作の全てが河野への愛をありありと証しているように彼は思った。
「あなたは、……河野を愛していたのに……、」と彼は言った。「どうしてあいつは死んだのだろう。」
「ええ、確かに私は河野さんを愛していました。けれどそれには何も意味も無かったんです。」
「そんな筈は無い、」と彼は強く言った。「愛が無意味だなんてことは無い。」
「いいえ、河野さんは亜里沙さんを愛していたのです。だから、私が幾ら想っても……。」
 松枝木綿子の啜り泣く声を聞きながら、河野は須坂さんの精神に傷を負わせる為に死んだのじゃないか、と彼は考えた。「他人の考え、思想を変えようだなんて、不可能だし烏滸がましいことだろうね。それは人間に出来ることじゃないし、強引にそうしようというのは赦されることじゃない、それを行い得るものがあるとすれば神くらいだ。」そう河野は嘗て語り、しかしそれを希って文学を試み続けた。若しや彼は自らの死によってその背理を成そうと試みたのじゃないだろうか。キリーロフは自ら自分自身を殺すことで神の存在を否定し、その高みへまで上ろうとしたが、河野は自らの死によって強引に他者の精神を改造しようとし、それによって自らを神へまで亢めようとしたのじゃないか……。いや、河野はそんな文学的ロマンティシズムで自殺を決意する程甘くはないだろう……。では一体何故? しかしいくら考えたとしてもその理由など分らないだろう、一切は河野の死によって深淵の中へ投げ込まれてしまっているのだから。
 気付けば伊東真一は通夜の行程に飲み込まれていた(それに纏わる様々のことは彼の外部を撫でただけに過ぎなかったのだろう)。物々しい読経の声を聞くとも無く耳にしながら、彼は尚も河野の死の秘密を探るように取り留めのない思考を続けた。 

【某月某日 Ⅴ】

 河野晶と須坂亜里沙とはロフトにて少量の酒を飲みながら話をしていた。彼はこの日も文学について大いに語ったが、暫くすると沈黙が落ちた。
 ――僕は君を好きだよ、と彼は言った。
 彼女はその言葉を聞いて暫く彼の瞳を見詰めた後に、
 ――誰にでもそう言うんでしょう? と悲しげに返した。
 ――そんな訣ない、と彼は答えた。僕に必要なのは君だけだ、君が欲しい。
 彼は自らを憎みながら言い終えると、少女の方へ近付いてその手を取った。
 ――一人暮らしの男の部屋へ一人でやって来ることの意味を君は分っているんです?
 彼女はその手を取らせたままに彼の眼を見据えた。先に眼を逸らしたのは彼の方だった。厭な眼だ、と彼は考えた。この少女は僕を何も出来やしない臆病者だと思っているに違いない。だからこの状況にあっても、常に強いのは自分だと考えているし、自分の思うように全ては進行すると信じているだろう。傲慢な女だ。僕はもう惨めな目に合わされるのは厭だ、僕は主体的に生きたい。もし僕に、強引に彼女を知ることが出来たなら……。
 彼は彼女の肩に手を掛け、それを掴んで徐々に力を強めながら少女の瞳を凝視した。そうして無言で近付いて彼女の唇を奪うと、彼女の方もそれに応えて彼の胡座をかいた脚の上に乗るように身体を預けた。
 今や僕には全てが可能なのだ、と彼は考えた。僕は自らの慾望の赴くままに行動し、彼女を征服するだろう。その時彼女は人格を剥奪され、僕の前の一個のものとなる。それは矢張りカントの思想に悖ることとなるが、僕にはそれが可能なのだ、生の強者には全てが赦されているのだから……。どうせこの少女は初めてではないだろうし、近付いて、そうして誘惑したのは彼女の方なのだから、僕は決して悪くない、僕は悪くない……。しかし、
 彼は自らの思索を断ち切ろうと、少女の後頭部に手を掛け、自らに押し付けるようにしてその唇を貪り、それと同時に空いた方の手で彼女の腰を強く掴み、徐々に愛撫を始めた。彼の手は忽ちに少女の慎ましい胸部へ至り、彼はその可憐な柔らかさを試すように数度手に力を入れた。それから下着をずらして、生の肌に触れた。と、その時彼女が彼の手を掴み、強い力で抵抗しながら、
 ――駄目、止めて、と小声で、しかし叫ぶように言った。私達、きっとお友達のままの方がいいと思う。こんなことをさせてごめんなさい。
 結局僕は何も出来ない男だ、と彼は考え、
 ――そう、とだけ言って身を引いた。
 彼はロフトの小机の上から煙草の箱を取って一本抜くとそれに火を点けて吹かし始めた、服の乱れを直す彼女の姿を眺めながら。彼女は身支度を整え終ると机上から弱いカクテルの入ったグラスを取って一口飲み、
 ――ちょっと腕を見せて、と言った。
 彼は怖ず怖ずと自らの右腕を差し出したが、「逆の方、」と言われて渋々自らの左腕を伸ばした。彼女は彼の手を取って腕の内側を上向きにすると、腕を覆っているシャツを捲り上げた。露わになった白い腕には刃物によって引かれた線が、縦横斜めに細く、或いは太く引かれていて、彼女はその傷の多い静脈の透けて見える辺りを愛おしがるように二三度擦った。彼が煙草を吸いながらされるままにしていると不意に彼女が、
 ――綺麗、と言った。男の子で自分を傷付ける人って初めて見た。
 ――男の子、ですか。僕はもう二十二になるのにね。
 彼の発言を意に介さず彼女は、
 ――どうして切ったの? と尋ねた。
 ――別に……、僕は自分が嫌いなんですよ。それと、何て言うかな、僕は自分が何のために生きているか分らない。で、考えた結果死ぬのが怖いから生きているだけなのじゃないか、ということに思い当たったんです。今でも時々そう思う。そんな時に、自分の中のある部分が、「お前は死を恐れて生きているだけだ、」という風に囁くんです。僕は、「そんなことはない、」と思って、反証するために手首を切ってみるんですね。それだけじゃ死ねやしないのに。全く無意味ですね。僕は無意味なことをばかりしているんです。
 ――私の見ている前で切ってみてくれない?
 彼は数秒考えた後、
 ――厭ですよ、と言った。君が切ってくれる分には構いませんが、自分で切るのは厭だ。そんなのは無意味だ。
 ――私が切るのは無意味じゃないの?
 ――どうでしょうね……。
 二人は階下ヘ降り、血が垂れても大丈夫な場所を探して風呂場へ至った。彼は洗面台の下から新しい剃刀を取り出すとそれを彼女へ渡し、次に自らの左腕の袖を捲って彼女に預けた。彼女は手に取った剃刀と彼の細い腕とを見較べた後、ゆっくりと刃を皮膚へ当てながら、
 ――力の加減が分らない、と呟いた。切り過ぎたらごめんね。
 ――数回試し切りをしたらいいでしょう、と素っ気なく彼は言った。
 剃刀の滑る微かな痛みを感じながら、今やさっきと全く関係が逆転している、と彼は考えた。僕は大人しく腕を切らせることで、彼女の慾望を満たすだけの道具に成り下がっている。僕と彼女との関係性に於いて、僕は常に受動的な奪われる側なのだ。いや、現実という人々の希望と絶望との混合である混沌に於いて、弱気な、臆病な僕は常に弱者なのだ。
 彼の左腕に出来た幾本の筋の数カ所から血が玉のように現れ、それらは次々に破れると手のひらの方へ伝って行った。少女は剃刀を置いてその流れの鈍い数本の流れをただ眺めていたが、指先へ血が至るや再度彼の手を取り、それを自らの方へ近付けて指先へ口吻をした。そうして指の血を舐め取ると徐々に腕の上の方へその舌を移動させ、遂には傷口から直接血を飲み始めた。彼は自らの手首へ口付けをする少女を愛おしく感じた。と、不意に少女は顔を上げて、唇と口内とを血に塗れながら彼を見詰めた。
 この少女の内部へ僕の血が侵入し、それは彼女を汚していく、と彼は思った。自らの退嬰的な慾望の満たされるのを感じた彼は思わず少女の唇に自らのそれを重ね、血と少女の唾液とを味わった。一つの慾望の満たされた瞬間にその先を希う慾望が出来したが、しかし彼は懸命にその迸るような眩暈を堪えた、これ以上に惨めな目に遭いたくはなかったから。

【三月二十七日】

 伊東真一は目を覚ました。そうして疲労を感じる頭で様々の想念を弄びながら身支度を整え、冬子の寝顔を見遣って彼女に置き手紙を残すと部屋を後にし、業務を開始したばかりの人気の尠い駅へ至って滑り込んで来た電車に飛び乗った。
 告別式は河野晶の実家の傍の葬儀場で行われることになっており、伊東真一は故人の嘗て在籍していた大学にて彼と最も親しく付き合っていた故にその大学方面の連絡係を急遽務めることに昨晩決まった(と言っても河野晶は盛んに人と付き合う性格ではなかったから、彼と親交のあった少数の人々と彼を可愛がっていた教授とに連絡をしたに過ぎない)から他の弔問者たちよりも一時間程早くそこへ到着した。そうして黒いワンピースにその身を包んだ松枝木綿子(河野の現在在籍している大学の連絡係は彼女が受け持っていた)と河野の両親と共に葬儀場の社員から式典進行の説明を受けた後、通夜の為に貸し与えられた外れの方にある棟へ至って束の間の急速を味わいながら河野へ捧げる線香の火を守った。
 昨晩の読経の際から伊東真一には様々のものごとが違和感を持って感じられていた。何よりも河野晶の死は彼には酷く不条理なものとして感じられており、全てがその色彩に塗られていたからだろう。葬式は仏式だ、と彼は考えた。僕は仏教には詳しくないし、記憶が確かではないのだが、その葬式を担当した僧侶は「河野晶様の魂はこの後極楽浄土へ云々……、」などと言っていたように思う、河野の悩める魂が平和な世界へ至れる訣などあるはずがないのに。兎に角僕には全てが欺瞞的に思える。で、僕に考えることは山ほどある、河野の文章がその内部で反芻され続けているから。僕は河野の残したものへ目を通したくて仕方が無い。先ず第一にその死の謎に迫りたいという思いがあるが、僕はそれ以上に強い衝動――河野の魂に触れたい、彼の書いた文字を読み続けたい――を感じている、僕は彼を掛け替えの無い友人だと思っている、僕は友愛的な意味では、この世の誰よりも彼を愛している……。しかし、しかし……。
 ぽつぽつと喪服に身を包んだ若者たちが集まって来て、次々と河野の枕元へ近付いては線香を上げた。そうして彼らは編入前の大学と編入後の大学とに群れて出棺までの時間を過ごした。彼はその中にM…の姿を探したが、しかし見当たらなかった。何故、彼女は来ないのだ、僕は確かに伝えた筈だが、と彼は考え、松枝木綿子に近付くと、
「君、背の高い、僕と同じくらいの女性を見掛けませんでしたか? 僕らの大事な友人なんですが、」と訊いた。
「いいえ、見ていませんが、」と答えて松枝木綿子は彼を改めて見上げた後辺りを見回した。「そんな方いらしていないかと。」
「そうですか、」とだけ彼は言った。
 その態度が松枝木綿子を困惑させた、というのも彼女は彼が意味深長な表現をした未知の女性を全く知らなかったし、河野晶の影にそのような女性があるとは想像をさえしていなかったから。
 彼は彼女を残してその場を後にすると葬儀場の入り口脇の喫煙所に佇み一心に正面の門を睨みながら煙草を喫み始めた、M…の姿を認めるや直ぐ様話し掛けたい、出来れば他の人の眼に付かず、二人きりで少しでも話したい、と考えて。しかし彼に出来ることといえば徒に煙草を吹かすきりで、何も能わぬままに時間だけが過ぎて行き、遂に彼は諦めて憤りを持ったまま葬儀場内へ戻った。と、不意に頬を膨らませた冬子の姿が玄関から顔を覗かせて彼女は彼を見付けて近付くや、
「どうして起こしてくれなかったの?」と詰った。
 その瞬間、突然彼には冬子に象徴される自らの幸福が罪深いものに思えてきた。愛する人を喪った松枝さんや、彼の家族やの存在が意識されたからだろうか、と彼は考えた。或いは河野の死――それに付随する罪の観念が僕をしてその幸福さえもを欺瞞的に思わせたのだろうか。いずれにせよ僕をして強く真実だと思わしめることは、河野の死という余りにも残酷な事実だけだった。そうしてそれが全てを包み込み、自らの生もまた呪われているだろうことが予感されてくる。……畢竟するに生きとし生けるもの全ての現象は虚しいものなのじゃないか、死は避け得ない事実として全てを待ち受けているのだから……。
 伊東真一は近くにいた松枝木綿子に早口で「彼女は従姉妹なんだ、」とだけ説明すると、冬子を伴って外へ出た。そうして、
「あんまり気持ち良さそうに寝ていたから、」と言い訣した。
 冬子はきょとんとした眼差しで彼を見詰め、
「置き手紙には、別に来なくてもいい、って書いてあったから行かないでおこうとも思ったんだけど、でも真一兄さんが心配で、」と言った。
 彼は実際冬子は来ない方がいいと思っていた。そもそも彼女は河野とは縁もゆかりも無く、ただ単に自分の恋人というに過ぎない故に葬式へ伴うのは気が咎めたし、こちらが彼にとっては重要なことなのだが、彼はこの葬儀に於いて松枝木綿子と須坂亜里沙とに接触することで河野晶の死の手掛かりを得られるのじゃないかと考えており、冬子が遣って来た場合彼女のお相手を幾らかはしなくてはならなくなって二人の女性と接する時間が減ってしまうから。
「でも僕には役目もあるし、冬ちゃんを放っておくことになってしまうよ。僕の部屋で読書をでもしていた方がよっぽど……、」と言いながら彼は自分の声の調子が普段と較べて冷酷に響くのを感じた。
「うん、でも……、」と彼女は言った。
 その顔は余りに淋しげで、彼は思わず除け者にされた幼い少女の面影が自らの意識の底の方から浮かび上がって来るのを感じた。
「いや、でも来てくれて嬉しいよ、」と彼は言った。「僕も身内じゃないからきっと一般参列者の方に入るだろうね。だから大抵の時間は一緒に居られる。……でも大学関係の人とも接しないといけない。それは知っておいてね。」
 忽ち少女の顔にあどけない笑みが浮かんだから彼は安堵の表情を見せ、そうして再び室内へ戻ると河野晶の亡骸の傍へ寄って線香を上げた。それに倣うように冬子も線香を上げると彼を見上げた。その光景を見て彼の同級生の男子学生が、
「伊東、その娘は君の恋人かい?」と冷やかした。
 その発言は死体の安置されている一室には不釣り合いな程明るく響いて、彼は顔の火照りを意識しながら辺りを見回した。で、彼は先ず松枝木綿子と眼が合い、その次にいつの間にその場へ姿を表していたのか、須坂亜里沙の睨むような眼差しと出会った。罪悪感が急激に膨れ上がって彼の内部の殆どを占め、自分の無作法さ、不謹慎さが思い知らされた。違う、と彼は言おうとしたが、しかし冬子の手前そう発言することは憚られた。
「この娘は僕の従姉妹で、河野とも数回会ったことがあるんだ、」と彼は何とか場を繕った。
 男子学生は納得したといった面持ちで頷くと元いたグループへ戻った。彼は改めて辺りを見回して双方の大学から十数人ずつ、計三十人弱程の人が集まっていることに気付き、松枝木綿子と須坂亜里沙とを筆頭に、河野の生に関わった人物たちが一堂に会しているのだ、と考えた。それはさながら河野の生の縮図と言うべきものだろう、そうしてこの人々と河野との交歓にはドラマがあるのだろうが、その劇的な部分の多くを松枝木綿子と須坂亜里沙との二人が保持しており、そこに河野の生の(そうして死の)秘密があるのだろう。僕はそれを暴かなくてはならない……。
 葬儀場の社員が遣って来て、出棺を始めると一同に声を掛けた。集まっている人々の中から男子学生が集められ、彼らは協力して河野晶の納められた棺を霊柩車へ乗せた。そうしてその母親が遺影を持ち、父親と共に霊柩車へ乗り込んだ。それを眼で追いながら伊東真一は河野晶のカメラを向けられて不機嫌に口を真一文字に結んで斜め下を眺めている遺影の肖像を自らの内部へ焼付けようと試みた。それは高校の制服姿だったから、彼には自分と河野晶とが知り合った頃のものだろうことが想像され、幾らか若々しいその姿は新鮮な印象を持って定着された。それと同時に彼は河野の遺族は両親しか出席していないことを訝しみ、その両親が高齢なことを踏まえて、きっと河野は遅くに出来た一人息子で、その祖父母は既に他界しているのかも知れないな、と推測した。だとしたら殊更両親の悲しみは深いことだろう……。彼は両親の希望を一心に背負ってさぞかし可愛がられただろうに……。
 社員の誘導によって、残された人々は葬儀場のバスに乗り込んで火葬場へ向かった。伊東真一はそのバスに乗り込む際、冬子に別行動することを諒解させると松枝木綿子に話し掛け、首尾良くその隣席を占めた。バスは霊柩車に先導されて走り出し、彼はぼんやりと死はこのバスに乗っている若者たちをも待ち構えているのだ、と考えた。死という事実を乗せた車に先導され、進んでいくというのは何と象徴的なのだろう……。河野が先んじて待っている死の眠りの中へ、僕らもまた……。
 伊東真一はその思索を断ち切って、隣に慎ましく座っている松枝木綿子の方を見た。彼女は虚ろに窓外を眺めており、彼はその瞳の中に河野晶への思慕を見出そうとした。しかし彼女の目許には涙の跡を見出すことは能わなかったし、その普段は聡明な輝きを湛えている瞳は虚無の一色に塗り潰されているように彼は思った。
「松枝さん、」と彼は小声で話し掛けた。
 彼女は物憂いような動作で彼の方を見遣り、
「何ですか?」と訊いた。
 彼は松枝木綿子に話し掛けて河野晶の死を暗示するような断片を引き出そうと考えていたが、それは余り趣味のいいこととは言えないし、それを試みようとする自分が無作法な人間に思えてきた。彼は開き掛けた口を噤み発声しようとした言葉を飲み込むと、
「いや、やっぱり何でもないです、」と言った。「すみません。」
 しかし、彼女もまた、河野の死の秘密に迫りたいと考えているのじゃないだろうか、と彼は考え直した。これは僕の希望的観測だろうか。
「河野は……、」と彼は再び口を開き、「何故死んだのだろう……、」と呟くように続けた。
 声に出してから、彼には自分の卑怯なことが強く意識された。松枝木綿子は彼の言葉には反応せず、二人の間に沈黙が落ちた。そのままバスは火葬場へ到着した。
 参列者たちは火葬場の一室に集められ、そこで棺が開かれて最後の対面となった。彼と松枝木綿子とは早い順番で棺に近付くと、一礼した後三本の指で抹香を摘んで額の前まで掲げ、それを香炉へ焼べた。そうして棺の傍に寄ってその死に顔を見遣った後に端へ退いた。人々は代わる代わる焼香をし、棺の傍に寄っては彼の死を嘆いた。数人の女学生たちは恐ろしい物を見るかのようにその死に顔を眺めては涙を流した。彼はその抑制された泣き声を聞きながら、河野晶と縁の深かったニ人の女性の反応を伺おうと自らの職業的意識(しかし彼はただの物書き志望の一学生に過ぎない)から来る冷静さを不謹慎な、残酷なものだと感じながら辺りを見回した。先ず眼に留まったのは松枝木綿子だった。彼女はしかし辺りを憚ったのか、無表情をその顔に浮かべ一心に棺の方を見詰めるのみで、後の二人もまた同様だった。
 火葬場の社員によって火葬へ移ることが宣告され、棺は台車に乗って火葬炉へ運ばれた。一切は機械的に進行し、棺は炉に入れられて扉が閉められた。彼らは火葬を待つ間の控室へ運ばれて、そこで軽食が振る舞われた。彼はそこで改めて参列者たちを眺めて、当たり前のことだが、その多くを学生が占めていることに気付いた。そうしてその中には自然と河野晶の姿も見出だせる筈なのに……、と考えは移ろい、河野の両親はそれを痛切に感じているだろうと結論した。多くの学生たちはその生を明るく生きているのに、どうして河野の姿だけがここにないのだ……、何故河野は死んだのだろう……、という繰り返し心の中に浮かぶものの、決して解決の糸口が掴めない謎が彼の内部を揺蕩い続けた。
 彼は自分と同じ大学に通う十名程の学生によって作られたグループの中で交わされる思い出話をぼんやりと聞いていたが、それよりも松枝木綿子と須坂亜里沙とのいる河野晶の編入先のグループの方の会話に意識を集中していた。
「河野さんは、私達の憧れだったのに……、」という女学生の声が彼の注意を惹き付けた。「いつも独りで……、何て言うか、孤高という言葉がぴったりで……。」
「河野さんと言えば、」と男子学生が前置きしてから話を始めた。「ゼミで先生に突っ掛かっていたのが印象的だな。ドストエフスキーの『罪と罰』についてなんだけど、先生の話した内容が気に食わなかったらしくて、先生の方では分り易くその内容を伝えるために少し程度を下げたんだろうけど、それが赦せなかったようだった。」
「あの時は冷や冷やしたね、」と別の学生が話に乗った。「ドストエフスキーに、そうして僕らに対する侮辱だ、なんて言い出すんだから。」
 その後も伊東真一の知らない河野晶の姿が学生たちによって話されたが、しかし彼の欲しいような情報はその会話には上らなかった。で、彼は隅に一人で所在なく座っている冬子の方へ移動してそこに腰を据えた、彼女の傍にはグループと強いて離れている無言の松枝木綿子と須坂亜里沙とが座っていたから。
「河野さんって素敵な人だったのね、」と辺りで交わされる会話を聞きながら冬子が言った。
「うん、」と彼は答えた。「真面目な男だった、潔癖的と言えるくらいにね。泥中之蓮というのは、河野のためにあるような言葉だ。さっきドストエフスキーがどうのって話があったようだけど、河野はソーネチカに心酔していてね、で、彼は文学に対しての思い入れが人一倍あったから一切妥協を許さないような真面目な男だった。本当に品性高潔と言った感じでね、なのに何故死んだのだろう。きっと変に突き詰めたんだろうね……。」
「どんな風に突き詰めたかご存知です?」と不意に須坂亜里沙が訊いた。
 掛かった、と彼は考えて、しかしその自らの手口を忌々しく思いながら、
「何となくはね、」とだけ答えた。
「河野さんはどうして……、」と松枝木綿子が言った。
「河野にはストア派のようなところがあった、」と彼は話し始めた。「で、いつだったか河野は、高潔な生を試みることが出来ない場合、ストア派は自殺をも許容するんだ……、というようなことを僕に言ったことがあるんです。きっと、僕には詳しくは分らないけどそういう事情からじゃないでしょうかね。」
「さっきあなたは河野さんを品性高潔だと言ったけれど……、」と須坂亜里沙は言い、「本当にそうだったのかしら?」と続けて傍らの松枝木綿子を見た。
 と、火葬場の社員が部屋へ入って来て、河野晶の両親に何か耳打ちをした。そうして父親の方が起立して、火葬が済んだから納骨に移ることを場の人々に伝えた。彼らは会話を止めてその部屋を後にした。次に案内された部屋の中央には銀色のテーブルがあって、その上に真っ白な人骨が横たわっていた。彼らはそのテーブルを囲むように近付いて耐え難いほどの熱気を感じながら変わり果てた河野晶を見た。しかし誰一人としてその骨組みから河野晶の生きていた時の姿を思い出すことは出来ず、それはただ単に全てを終えた人間の姿として映るだけで、死という決定的な事実の靭い印象を面々に投げ掛けるのみだった。火葬場の社員によって簡単な説明が述べられ、人々は長い箸を用いて骨を拾ってそれを骨壷へ収めた。それは余りに単調に進み、彼らは呆気なさのようなものを感慨深くその胸中に抱えながら葬儀場へ向かうバスへ乗り込んだ。
 彼は先程の会話を続けるために今度は須坂亜里沙の隣を占めると早速、
「さっきの続きなんですが、」と小声で話し掛けた。「河野は僕からしたら高潔な善のみを目指して生きていると言った感じでしたよ。」
 彼女は冷笑的に彼の方を一瞥して、
「でも、河野さんは弱い人でした、」と言った。
「弱い? それはどういう弱さです?」
「臆病で、自信がなくて、……誘惑に抗えない、情けないような弱さです。」
「臆病というのは分る。腺病質な、神経質のような男だった。でもその誘惑っていうのは?」
 須坂亜里沙は苦々しい表情をした後、
「河野さんは、」と言って少し口淀んが、「私と、そうして木綿子さんとも関係を持っていたんじゃありません?」と続けた。
 彼は自分の考える河野晶像の壊れるのを感じ、些かの動揺を受けながら、
「つまり女性に溺れるような弱さですか?」と訊いた。
「ええ、あの人は女性無しでは生きられない、弱い人です。あなたもそうでしょう? 何のつもりか知らないけど、お葬式に恋人なんかを連れて来て……。」
「違う……、」と彼は弁解しようとしたが、その先の言葉は出て来なかった。
 そっぽを向くように須坂亜里沙は視線を窓の外へ移し、帰りのバスもまた彼にとって気不味いものとなった。僕は自分の知らない河野の生の断片を得た、と彼は考えた。しかもそれは僕の中の河野の印象を覆すようなもので、まるで不気味な現実が河野を包み込み、その死の謎と共に生もまた謎の中へ投げ込んで現象しているように思える……。「勿論僕も男だから分らないでもないよ、でもね、もし汝の眼が汝を躓かせるなら、抉り出して捨ててしまえ……、だっけね、」という嘗ての河野の発言は、死を暗示していたのじゃないか? 彼は自らの全てを死へ投げ込んだのかも知れない……。

【某月某日 Ⅵ】

 河野晶と須坂亜里沙はある日を境にして急速に疎遠となったが、彼と松枝木綿子とは余り深い関係へは入り込んでいなかったから、会えばそれなりに会話をし、その際彼は二三の戯談を飛ばして彼女をからかうと言った風な気楽な關係を築いていた。
 この日も二人は共通に履修している授業を終えると連れ立って駅へと向かい、いつものように帰路に就こうとしていたが、今までにないほど話が盛り上がった故に駅前の喫茶店へ立ち寄った。しかし二人がそれぞれ飲み物を注文し終えると不意に沈黙が出来した、お互いが二人の関係性の変化の予感を前にして戸惑いを覚えたから。意識すればするほどにその沈黙は気詰まりに思えてきて、それを打ち破る一言を発しようと考えたものの、その一言は意想外な重みを持って二人の運命を方向づけるように思えた。
 店員によって飲み物が運ばれてきたのを切っ掛けにして遂に彼が、
 ――君は何を頼んだの? と少し間の抜けたような質問をした。
 ――紅茶です、と彼女は答えた。私、珈琲を飲めないの。
 彼は少し言葉を選ぶように沈黙した後に、
 ――まだお子様なんですね、と軽口を叩いた。
 ――もう大人ですよ。
 その遣り取りは普段ならば彼女をからかう彼と、それへ控えめに憤慨する彼女と、という無邪気な図だったろうが、この時ばかりは、「もう大人ですよ、」という言葉が別のニュアンスを持ったように彼女には思えて、それ故に少しその頬を赧らめた。
 私はいつも子供扱いをされるけれど、もう立派な大人なのだ、と彼女は考えた。臆病で弱気でおどおどしている所為でからかわれてばかりで、誰も私を一人の人間として、一人の女性として見てはくれない。亜里沙さんだってそう。私を無知な子供、ペットか何かだとでも思っているんだわ。河野さんと最初に会ったのは私なのに、気付けば彼女は河野さんを自分のものにしている(亜里沙さんは何も言わなかったけど二人の間に何かがあって、その関係が冷えきっていることを私は知っている)。河野さんがよくチャペルに一人で篭もっていることを知っていたのは私の方なのに(あのノオトは私一人で届けに行けばよかった)。でも、亜里沙さんを咎めてはいけない、そもそも私にはその権利などないのだから。私がきちんとそのことを表明しなかったのが悪い。でも一体何を表明するというのだろう? 私が河野さんを好いていること? 私は河野さんを好いて、愛しているの? 分らない。
 彼は彼女のその赧らんだ頬を一瞥するや、僕の掌編は反故になった、と考え始めた。そもそも僕はこの松枝さんの方を愛していたのじゃなかったか。しかし僕は間違えたのだ。須坂亜里沙を所有しようと考えそれに失敗したのだ。それだけじゃない。僕は嘗て一人の少女を愛そうと試みて、しかしその少女から逃げたのだ。逃げるようにして辿り着いたこの場所に於いて失敗することは当然のことだ、その失敗はあの愛を断ち切ったその瞬間から決定付けられているだろうから。一度愛することに挫折した僕にはこの先失敗しか無い。一度間違えた人間、一度汚れた魂はもう二度と清くはならない。次第に汚辱に染まり、善意志は直きに消え去って、そうして只管に頽廃の道を歩むだけだ。それが罰というものだろう。最早一縷の望みすら無いのだ。……しかし本当にそうだろうか。僕は一度だけ賭けてみたい。若しこの松枝さんを誘惑して彼女をものにすることが出来たら、僕は良心的に自らを殺そう。もし拒まれたら、僕は清いままの彼女を愛して新しく生を試みよう(しかしこれは卑怯な僕の考え出した詭弁的なものじゃないだろうか……)。
 二人はカップを空にするまで沈黙を続け、漸く彼が口を開いた。
 ――二人でこういうところに来るのは思えば初めてですね。
 ――ええ、なんだか緊張する。
 ――じゃあ、出ましょうか、と彼は言い、少女の顔が若干翳ったのを意識して、ちょっと散歩でもしましょう、と続けた。それならきっと緊張しないし、好いアイデアでしょう?
 ――そうですね、でも……、と彼女は時計を見て言った。
 彼も彼女に倣って時計を見遣った。六時半を少し過ぎたところで、いつの間にか日が落ちて外は暗くなっていた。
 ――門限でもあるんです? と彼は訊いた。
 ――でも大丈夫です、もう私は大人なんだから。
 彼は強いて笑みを浮かべて、
 ――意外と不良なんですね、と彼女の発言を戯談にしようとして言った。
 松枝木綿子は普段のようにむきになって否定したりはせず、
 ――そうですよ、と答えた。私、夜景の綺麗なところへ行ってみたい。
 彼は、煙となんとかとは高いところが好きって言いますね、という普段なら口にするだろう言葉を飲み込んで、
 ――じゃあ行きますか、と言った。
 彼は椅子の背凭れからコートを外すとそれを纏い、マフラーを乱暴に巻くと伝票を持ってレジへ向かった。彼女もコートを着ると鞄を持ち、急いで彼の隣へ至ると自分の財布を鞄から取り出したが、彼はそれを制して「僕が誘ったんだから、」と早口で言うと一人で会計を終えた。
 喫茶店を出ると二人は白い息を吐き出しながら暫く大学付近を歩き、彼は様々の店の入っているビルを選んでその入口を抜けた。そうしてエレベーターで最上階まで上がると人気の無い屋上の手摺に手を掛けて街を眺め始めた。その夜景を眺めながら、嘗て僕はこの夜景を後期印象派に顕著なあの独特な筆致に例えて須坂亜里沙にそう話したことがあるな、と彼は考えた。僕はこの景色を綺麗だと言い、それは君が隣にいるからだ、と彼女に話したのだったな……、しかし。
 ――綺麗……、と松枝木綿子が呟いた。
 彼は彼女を見遣り、その横顔の美しさに眼を見張った。
 ――君の方がよっぽど綺麗ですよ、と彼は罪悪感を覚えながらも口に出して言った。
 彼女はその言葉を聞いて彼を見ると、
 ――でも、寒い、と微かな声で言った。
 彼は自らのマフラーを解いて、それを彼女の首へ優しく巻いた。と、不意に二人の眼が合ってお互いにお互いがとても近い距離にいることを意識した。彼は何も言わずにそのまま彼女の唇を奪い、歓喜の眩暈に充たされた。彼は一度松枝木綿子から離れたが、彼女は彼のコートの裾を掴んで引っ張ると眼を閉じて彼を待った、睫毛を戦慄かせながら。彼は忘我の境地への誘惑に抗えず、再度彼女に口付けをするとその細い身体を強く抱き締めた。
 数分の後二人は身体を離し、彼は彼女を見据えた。
 ――私、今のが初めて……、と彼女は口にした。
 その告白を聞いた瞬間、彼を罪悪感が襲った。

【三月二十七日】

 バスが葬儀場へ到着して人々を吐き出し、彼らはそのまま告別式開場である一室へ通された。直ぐ様式場の社員から、受付を始めるように、との指示を受けたから伊東真一と松枝木綿子とは持ち場に付いた。彼は冬子を眼で呼び寄せると真っ先に受付を済まさせて、彼女をロビーへ下がらせた。やはりその時意識を罪悪感が掠めたが、彼はそれを気にしないように強いて受付を始めた。彼はその間中、幾度も述べられるお悔やみの言葉へ機械のように返辞をしていたから、次第に自分の感覚が麻痺していくように思った。そうして受付を終えると松枝木綿子に一声掛けた後そこを出て玄関脇へ至ると煙草に火を点けて青白い煙を吐き出し始めた。と、彼にも面識のある河野晶を可愛がっていた老教授が遣って来て煙草を吸い始めた。
「しかし教え子に自分よりも早く死なれるとはね……、」と教授は呟いた。
「ええ……、まさか河野が死ぬだなんて……。」
「私はもう老年に差し掛かっているから、自然と君らを瑞々しい生きる力に充ち満ちている存在として見ているんだが、それにしても残念なことだ。しかも彼はお世辞じゃなく、私の見てきた学生たちの中でも最も優れていたのだからね……。」
 教授は煙草を灰皿で揉み消すと、
「伊東くん、君は頑張り給えよ、」と言って煙草を灰皿へ投げた。
 彼もまた煙草を捨てるとロビーへ向かった。そこでは矢張り人々がそれぞれのグループに固まって会話を交わしており、彼もまたその輪に加わろうとしたが、ここでもまた冬子が所在無く佇んでいたから彼女の方へ至ると、
「冬ちゃん、もう直き告別式が始まるよ、」と声を掛けた。
 彼はこの少女はなるべくなら早くここを後にして帰りたいだろう、河野とは面識がないんだから、と考えた。しかしそれは咎めるべきじゃない、人の死の香りの濃厚な場所、悲しい印象の色濃い場所には、出来れば居たくないと誰でもが考えるだろうから。
「うん、」と彼女は言い、「河野さん、立派な人だったのね、」と先程と同じように続けた。
「そうだね……、」とだけ彼は返した。
 告別式開場の扉が開かれて係員によって入場が促された。少ない親族と一般参列者とは分けられること無く、通路を挟んで横に三席ずつ、縦に六席という風に並べられた椅子へ腰を下ろしていき、その最前列の左側に河野晶の両親が、右側へ伊東真一と松枝木綿子とがどちらも通路に面した席を空けて占める形になった。彼は眼前の遺影の据えられた祭壇を見遣り、そこに据えられている遺影を凝視した。と、僧侶が四人その部屋へ入って来て簡単な挨拶を済ますと経文の書かれた小冊子が配られて読経が始まった。彼は小冊子を眺め、読経の声を聞きながら、その全てが無意味であることを一心に考え続けた。幾らこんなことをしても河野の魂は浮かばれないだろう……。河野の死んでしまった今、生者に出来ることなんかない、彼の両親や、様々の女性や、僕やが彼をどんなにか愛していたとしても……。僕が(そうして他の人たちもが)これほど彼を愛しているのに、しかし彼を救うことは出来なかった。愛は一体何の役に立つというのだ……? 愛なんて無意味なのじゃないだろうか、尠くとも、河野にとっては無意味だった、そうして僕にとってもそうなのじゃないだろうか……。松枝さんに向かって、「愛が無意味だなんてことは無い、」と僕は言ったが、しかし、しかし……。
 気付けば読経は終っていて、彼は促されるまま焼香台の前に立つと機械的に一連の動作を済まして着席した。そうして他の人々の焼香するのをぼんやりと眺めた。それが済むと愈々告別式も終わりに差し掛かり、松枝木綿子が弔辞に指名されて彼女は立ち上ると、参列者たちへ一礼して歩みを進め、今度は僧侶たちへ一礼し、最後に遺影に向かって頭を下げると紙を広げて口を開いた。
「河野さん、私はあなたと一年しか一緒に過すことが出来ませんでした。それが残念でなりません……。初めてお会いした日を、そうして最後にお会いした日を、いいえ全ての河野さんとの思い出を私は訃報を受けてから何度も思い返しました。河野さんはいつも厭世的な憂愁の色をそのお顔に浮かべていましたが、でも本当はとても優しい人で、時々草木や動物や子供やを見ると綺麗な、少年のような笑みを浮かべていたものです。そうしてそれを見詰めている私の視線に気付くと直ぐに普段の表情に戻ってしまいましたが、でもどこか照れくさそうなはにかみを私は見出していました。私がこんなことを述べるまでもなく、皆さんの中にも河野さんの優しさ、その人柄の暖かさを証しする思い出がたくさんおありのことでしょうね。私たちはきっとその思い出を一生忘れないでしょう。」
 松枝木綿子は淀みなく弔辞を読んでいたが、不意と河野晶の母の啜り泣く声を耳にしてそちらを見ると、その悲しみが伝染したのか、話すのを止めた。しかし彼女は懸命に、
「私にとって印象深い河野さんの思い出は……、」と涙声で続けたものの、そこから嗚咽が混じり始めた。
「河野さんと私たちとはお友達になってからというもの行動を共にすることが多く、私たちは河野さんの幅広い知識、特に文学の造詣の深さに驚かされました。そうして河野さんを尊敬しながらたくさんのことを教わったものです。それで週に一度河野さんによるお講義を――といってもその多くはいつしか他愛のないお喋りに移ろうのがお決まりでした――私たちは聞くようになったのですが、……その楽しい授業を受けることはもう出来ないんですね。悲しくてなりません。」
 松枝木綿子は一同に向かって深々とお辞儀をすると須坂亜里沙にその手を引かれて元の席へ着席した。最後に喪主である河野晶の父親による手短な挨拶があり、それが終わると一同は別の部屋へ移動して精進落としを振る舞われる運びになった。彼は河野晶の死の手掛かりを聞き出そうとしたが、しかし好機は巡って来なかったから、冬子を急かすようにして早めにその場を辞去することに決めると彼女を伴って帰路に就いた、僕は小説家だ、そうして僕の武器は想像力だろう、と考えながら。

【或る日】

 一人の青年と少女とが帰り道を歩んでいた。この日二人は彼の部屋で細やかな鍋を囲むことに前々から決めており、その為の買い物で青年の両手は塞がっていた。しかし彼は強いて快活に自室への道を歩き、その扉の鍵を開けると彼女を先に中へ通した。彼は後から玄関へ入ると先ず鍵を閉め直したが、その際に響いた音が大き過ぎるくらいに聞こえて、その音を彼女も意識しただろうか、と考えた。で、そちらを見遣ったものの、彼女はいそいそと机の上に散らかっているノオトや吸い殻の溜まった灰皿やを片付けており、彼の懸念については全く無関心のようだった。彼が安心して靴を脱ぎ、部屋の中心へ移動してその小さな卓袱台の脇に買ってきたものを置くと直ぐ様彼女がその中身を一つ一つあるべき場所へ収め始めた。彼はそれを横目で見ながら煖房を入れて台所へ行き、食器棚の奥から土鍋とガスコンロとを取り出してその土鍋の中に二人分の食器を入れると居間へ戻った。そこでは彼女が既にやることを終えて準備しており、台所を借りるね、と言うや土鍋を持ってそちらへ向かった。
 彼は彼女の食材を洗う音やら刻む音やらを聞きながら煙草に火を点けると横になり、上方へ向かって青白い煙を吐き出し始めた。明日は一緒に美術館へ行く予定だ、と彼は考えた。で、その為に彼女は今日この部屋に泊まるから、きっと僕は彼女を知るだろう。しかし、それは赦されることなのだろうか。嘗て他の女性を愛すると(その愛は確かに真剣だった、僕にとって二度と繰り返されない真実の愛だった筈だ……、ということは、彼女を選びその愛を自らの格率とした時点で僕には別の女性を愛することは禁じられた筈だ、その愛を裏切ることは自らを裏切るのと同義なのだから。)誓った僕……。この少女との恋(僕はこれを愛と呼べそうに無い)、それは僕を堕落へと導くだろう(決して新生へは至れない)、僕の魂を汚すだろう(決して清くはなれない)。これら全ては自らの孤独のみを恃んで生き得なかった僕の罪だ、その罰だ。今や一切の道が鎖されている。僕はきっと彼女を抱くだろうが、しかしそれは何にもなりやしない。そこに魂の感動は無いし、回心もまた無いだろう。一度穢れた僕の魂は徐々にその善意志さえもを失って行く、律法が僕を殺す、罪が生き返って僕が死ぬ。それなのに……。
 彼女は土鍋に野菜と肉とを入れて戻るとそれをコンロの上へ優しく乗せ、再度お勝手へ行って米を洗い始めた。そうして洗い終えるとそれを炊飯器にセットしてスイッチを押し、タオルで濡れた手を拭うと彼の傍へ戻って腰を据えた。彼は相変わらず煙草を喫みながら横たわって思索に耽っていたから、彼女はその肩を叩き、ねえ、と声を掛けた。彼は意識を現実へ戻して、何? と尋ねた。あとはご飯の炊けるのを待つだけなんだけど、と彼女は話し始めた。それまで何かすることはないかしら。私暇で……。じゃ、テレヴィでも点けようか? と彼は提案した。それとも音楽をでも流そうか? 彼女は少し不機嫌な顔をして、構ってよ、と言った。構うって言ったってなあ、と彼は言った。将棋でもする? 私、将棋は出来ない。少し早いけどお酒を飲みましょう、ね? 彼は渋々と言った風にその提案を受け入れて、台所へ向かうと二人分のグラスとマドラーとを持ち、そうして冷蔵庫からリキュールを取り出すとその瓶を二の腕と肋との間に挟み、グラスを器用に片手で二つ持つと牛乳を空いた方の手に取ってそれにマドラーを重ねるようにしてリヴィングへ戻った。彼の抱える酒瓶やグラスやを彼女は一つずつ受け取ると順々に机の上へと乗せていき、それが終わると飲み物を作り始めた。二人は乾杯をし、彼はそれを一息に飲み干すと、こんなのじゃ酔えやしない、と呟いて台所へ行き、冷蔵庫からウィスキーの瓶を持って居間へ戻った。そうしてそれをコップへ注いで一口飲むや咳き込んだ。彼女はその背を優しく擦って、無理して強いお酒を飲むから……、と咎めるように言った。何か厭なことでもあったの? さっきから何を考えているの? 君に話したところで何にもなりやしない、と彼は考えたもののその本心を隠すために、君のことを考えていたのさ、と答えた。本当に? と彼女は訊いた。本当だよ、僕なんて大抵君のことをしか考えていないんだよ、と言いながら、しかしそれは純粋に君を思っているのとは違うのだ、と彼は心の中で呟いた。どんなことを考えていたの? そうだね、どうして君はそんなに可愛いのかな、と考えていたんだ。……しかし僕は駄目だ。君は僕以外の男と仲良くして、幸せになった方がいいのじゃないかな。どうしてそんなことを……? それで強いお酒をお飲みに? そうだよ、僕は本当に駄目な男なんだ。僕は弱い。僕はもうidéeを想う心を失くしてしまったのかもしれない。いや、急にこんな暗いことを言い始めてごめん。いいえ、私には正直に思ったことを言って。彼は煙草を取って火を点けるとそれを美味そうに喫んだ。そうして、一度汚れた魂に再び清く輝くことは出来るのだろうか、と呟くように口にした。私には分らない、と彼女は答えた。そんなに暗いことばかり考えていないで、もっと楽しく生きなきゃ。そうかも知れないね、と彼は言い、しかし僕にはそれが大事なのだ、と考えた。僕、シャワーを浴びて来る、と言うや彼はほんの少し足を縺れさせながら風呂場へ消えた。
 一人残された彼女は先程の彼の科白を反芻し始めた。……しかし僕は駄目だ。君は僕以外の男と仲良くして、幸せになった方がいいのじゃないかな。……じゃあ、私は居なくてもいいということかしら、私は誰か他の人と幸せになるべきなのかしら。ということは、私は愛されてはいないということになってしまう。でもそれは、私を幸せにすることが出来ないだろうという、自信の無さから言われたのじゃないかしら。僕はもうidéeを想う心を失くしてしまったのかもしれない。……一度汚れた魂に再び清く輝くことは出来るのだろうか。そんなこと私には分らない……。
 彼は首にタオルを引っ掛け、上半身は裸、下はジャージという出で立ちで居間へと戻って来た。彼女は初めて見る同年代の男の半裸の姿に一瞬その頬を赧らめたものの、ちらちらと彼の痩せぎすの浮いた肋骨やら微かに割れた腹筋やらによって形成される均整の取れた身体を偸むように見た。彼はそれを全く意に介さずに風呂上がりの一服を試みながら、彼女が彼のために作り直しておいたカクテルをちびちびと飲んだ。彼の入浴中に夕食の準備は整っていたから、彼がその煙草を吸っている間に彼女は台所へ行って二人分の茶碗へ白米をよそい、それを卓袱台へ置くと彼からライターを借りてコンロの火を熾し、その上に土鍋を乗せて準備を終えた。箸はどこ? と訊かれて彼は短くなった煙草の火を灰皿に押し付けて消すと、居間を出て二人分の箸と小皿とを持って来て卓袱台を挟んだ彼女の対面に腰を据えた。その小皿へ彼女がポン酢を注いで二人は夕食を開始した。
 彼は、こういう時には料理を褒めておくべきだろう、と考えて簡単にお世辞を言いながら鍋をつつき、彼女はその度に、お鍋なら誰だって……、と口にした。二人共少食だったから直ぐに夕食は終り、彼女は汚れ物を洗うために台所へ立った。そうしてそれを終えると元いた場所へ腰を下ろした。
 シャワーでも浴びて来たら? もし湯船に浸かりたいならお湯を張るけど、と彼は素っ気なく言った。彼女は素直に、ええ、と答えると、シャワーで大丈夫、と言い残して洗面所へ向かった。彼は彼女が逡巡無く一連の会話を終えたことに若干の違和感を覚えたが、まさか彼女が男慣れしている訣でもないだろうと考え、その清い彼女とそれを汚そうとする自分とについて思索を始めた。つまり、若し今は清いとしても、僕によってその美は損なわれるのだろう。僕とのキスを終えて初めてだと告げた彼女、しかし僕はそうじゃない。僕は嘗て別の女性を愛したという事実を持ちながら、彼女の唇を奪ったのだ。しかし愛は全ての罪悪を洗い清めるのじゃないか……、しかし、しかし、しかし……。
 彼が自家撞着の堂々巡りをしている間に彼女はシャワーを浴び終え、髪の毛を乾かし、彼の傍へ腰を下ろした。彼は好い香りをその身に纏った彼女をまじまじと見詰め、彼女は、あまり見ないで……、と弱々しく言った。しかし僕には見る権利がある、と彼は考えた。で、優しく口付けた後強引に彼女を押し倒すと組み敷かれた彼女の美しい瞳に出会った。それが彼の心を撃ち抜き、彼へ啓示を与えた。この罪悪感、僕はそれを眼下の少女と嘗ての恋人と自らとへ等分に抱いている。ということは、それは僕が嘗て別の少女を真剣に愛していた証であると共に、今この少女を靭く愛していることの証でもあるのじゃないか……。
 彼は行為を中断すると彼女を優しく座らせて、僕は君を愛しているよ、真剣に、と穏やかに言った。
 確かに僕はこの少女を愛している、と彼は考えたものの、矢張りそれは欺瞞的に思えた。この少女を愛するには、嘗ての愛を否定しなければならない筈だ。しかし僕にとってそれは不可能だ。しかし現在のこの愛を僕は肯定している。それは矛盾だ。全ては間違いだ。愛すれば愛する程に人は孤独の純度を亢める、人は愛すれば愛する程に孤独を靭める。畢竟人間と人間との間に愛など不可能なのだ。……全ての生は不可能の深淵、絶望へ向かっている……。僕はア・ポステリオリにそれを直感していた。そうしてその不可能性を知りつつも孤独から逃れようとして人を愛そうとした。孤独を見詰めることの出来ない弱さ、それこそが僕の罪だ。自らの孤独、その荒廃を凝視せず、不安から、不快から、不可能から逃げようとした僕はどんなにか卑怯だったことだろう。ああ、僕は先程、愛しているだなんて言ってしまった。僕は弱い、僕は惨めで愚かな存在だ。……いや、多くの者はそのことに目を瞑っているだけで、全ての人間がそうなのだ。自由の刑に処された人間は、その行動によって責任とそれに由来する罪とを背負うのだ。その徐々に重さを増してゆく十字架を背負いながら不条理の混沌が犇めく現実、そのニヒリズムに耐えてゆく惨めなか弱き存在、それが人間だ。しかし僕は書かなければならないだろう。それは弱さから? 或いは強さから? 分らない。兎に角この悍しい現実の中に独りで立ち、その世界を自分なりに秩序付けることで謎に迫らなくてはならないと僕は靭く思う。
 僕は君を愛するよ……、と改めて彼は言い、心の中で、それは不可能なことだが、と続けた。そうして眼前の少女の瑞々しい澄み切った瞳を見詰めた。

 

 【三年前 Ⅲ】

 ――駄目駄目、じっとしてなきゃ。……ほら、また動いた。全く君って奴は……。
 午後の物憂いような光の差し込む部室に伊藤真一の文句が響いた。かれこれもう一時間ほど彼は小煩い文句を友人に投げ掛けながらクロッキーの上に鉛筆を走らせていた。が、河野晶は友人の小言を全く気にせず、同じポーズでいたために固くなった上半身を反らしたり、痺れた脚を伸ばしたり、終いには煙草をポケットから取り出して喫み始めたりする始末だった。しかし河野はどんなポーズでも様になるな、と伊東真一は考えながら、その切れ長な憂愁の宿った瞳を、頬骨の辺りへ影を落とす長い睫毛を、高く尖った少し上向き加減の鼻を、貧血性の白い肌、しかし燃えるような薔薇色を湛えた頬を、皮肉に曲がりながらもその赤さが少年らしさを主張して已まない唇を改めて見遣り、河野晶がポーズを帰る度にその姿を素早くスケッチしようと試み続けた。
 ――僕もう疲れたよ、お昼を食べに出よう、と河野晶が砕けた口調で言った。奢ってくれるんだろう?
 伊東真一は腕時計をちらと眺めた後、
 ――もう少し待ってくれよ、と応えた。どうせ今行っても食堂は混んでいるし、空いた頃に行こう。
 ――しかしね……、一番高いA定食でも三八〇円だろう。時給三八〇円でこんなにもこき使われるなんて侵害だよ、僕心外に思うよ。
 ――そんなに怒るなよ。可愛い顔が台無しだよ、La fille?
 ――その渾名で僕を呼ぶのは止してよ。
 ――Je suis désolé, madomoisel ?
 ――Ne dis pas ! Je vais aller au restaurant. D'accord ?
 ――Non !
 ――Mais,……regarde ! と河野晶は窓の外を指さして言った。Madomoisel Miyama vient. On y va. Et prenons le déjeuner avec elle.
 伊藤真一は河野晶の言葉を聞いてその視線を窓外へ移し、陽の光を浴びて輝く一人の少女がこちらへやって来るのを認めた……。

【遺書】

「彼は現在に於いてYを愛している」という文章は、「彼はYと同一カテゴリに属する他の存在を愛していない」を含んでおり、更に「彼はYと同一カテゴリに属する他の存在を愛することはない」をも含んでいるべきである。ならば、「彼は過去に於いてYと同一カテゴリに属する他の存在を愛していた」という事実がもし仮にあるとした場合、その過去に於いて「彼はXを愛している」という命題がある訣で、それには「彼はXと同一カテゴリに属する他の存在を愛していない」と「彼はXと同一カテゴリに属する他の存在を愛することはない」とが含まれる。過去を立脚点とした場合、最初の「彼は現在に於いてYを愛している」は「彼は未来に於いてYを愛する」に換言出来るから、「彼はXを愛している(Xと同一カテゴリに属する他の存在を愛していない、且つ愛することはない)」しかし「彼は未来に於いてYを愛する」ということになる。これは矛盾であり、それ故間違いである。
〈愛する〉という語はその目的語として永遠不変の一人をしか取れない。現在に於いて誰かを愛していると肯定するならば、過去の愛を否定しなければならないし、過去の愛を肯定するならば現在のそうして未来の愛をも否定しなければならない。

 僕はあの少女を永遠に愛し続けると誓ったのに、しかし別の少女に惹かれた。僕の精神はあの少女を愛し、僕の中の暗い慾望は別の少女に惹かれた。僕の慾望が僕の魂を汚した。僕はあの瞬間に堕落した、狭き門を潜る資格を僕は自分で捨てた。そうして僕の生は規定された。
 
 僕はこの生に於いて何一つとして誇ることを為し得なかった。僕は確かに笑ったし、怒ったし、泣いたし、……或る時は愛したが、それらは何にもなりやしなかったし、何の意味も持たない。僕の愛も、涙も、笑いも、体温も、脈動も、心臓の音も何の意味をも持ってやしない。僕はもう疲れた。この無意味な生を続けることに厭き厭きした。僕は全てに別れを告げよう。
 ……僕は今心に去来するままにこれを認めているが、一体何故僕は書くのだろう。全ては無意味だと考えながらも何故書き続けるのだろう。
 手首の疼痛が時折僕の手の動きを止める。手首を切ったくらいじゃ死ねやしないことは分っているが、いやしかしこれは僕による自分への裁き、自分への罰なのだ。
 しかし僕だって出来ることなら生きていたい。僕がどんなにか生を希っていることだろう。いや、今更こんなことを考えても始まらない。
 漠然とした生への不満と恐怖と自分への嫌悪と……、兎に角僕はもう疲れた。生きることに疲れた。
 僕は実際的な能力を何一つとして持ってやしない。自分を心底駄目な奴だと思う。思えば真剣に生きる勇気も無いし、死ぬ勇気すら……、いや僕は何とかして後者を自らが持っていることを証明するつもりだ。
 今は金曜日の夜、十一時を少し過ぎたところ。今週僕は一日一食で過ごしている。僕は大抵の日を寝て過ごした。自室で燻ったように過ごしている。今日は未だ何も口にしていないから酷く空腹だ。どうせ死ぬのなら最後くらいは自分の好物を食べてから、と自らを俗っぽく感じながらも思う。
 全くこれは支離滅裂な文章だ! しかし僕にはもう理性を持続させることさえ出来ないし、するつもりもないんだ……。僕はもう疲れた。
 下らない記憶が蘇ってはここへ定着される前に消えてゆく。僕は臆病な消極的な性格を持った少年だったが、癇癪持ちで自分の考えを一度固めたら容易にはそれを譲らない頑固さを持ち併せていた。だから、或る時は友人と、また或る時は家族と、色々な場面で人と衝突したように思う。傲慢で我儘な僕は人と接するに際して常に憎しみを抱えていた。愛する少女でさえ(こんなものは決して愛と呼べたものじゃない筈だが)、彼女に僕の理想通りじゃない部分を見出だすや直ぐ様憎悪の対象と変じた。僕の考える善にそぐわないもの全てが僕にとっては悪なのだ。
 親友か恋人かを得ることは能わないだろう。僕は孤独だ。そうして僕は孤独が人間の根源的なものであるとともに、人間に許される状態じゃないだろうことを分っている。完全に一人きりで生きてゆくことは不可能だ。しかし僕には人と関わることが出来ない。したくない。一人きりである限り、その人間に社会的価値はない。そもそも人生には何の価値もないのだが……。
 畢竟僕は真っ当に生きることの出来ない人間なのだ。虚無の中で生きる人間には何かを愛することのみが光なのだろうが、僕には人を愛することは出来ない。そんな人間なんて生きていて良い訣がない。僕にとって人を愛することは自らを憎むことだ――その距離故にそうならざるを得ない。僕に愛することが可能なのは、完全に清い人だ。そうしてその人と汚い僕との間には絶望的な断絶の距離がある。僕は自らを憎む。
 僕は何度間違えるのだろう。僕は何度罪を重ねるのだろう。僕はどれほど穢れているのだろう。僕は……!
 もう厭だ、僕はもう疲れた、僕はもう生きていたくない。
 せめて誰かを愛したかった。せめて僕は誰かに愛されたかった! 孤独に生きるのは厭だ。しかし僕にはそうやって生きるしか道はない。
 醜い手首の傷は、僕の不具の精神のあらわれ。そんな僕を愛してくれる人などいないし、僕には誰も愛せない。僕は一生独りぼっちだ。愛して欲しいのに。
 僕は初めて自分の素直な思いを吐き出した。遂に僕はそれを吐露してしまった。
 愛して欲しいのに!
 ああ僕にはもうこんな弱くて惨めで醜い自分を赦せそうにない。愛して欲しいだなんて! 人を愛することも出来ないのに、愛して欲しいだなんて! なんて自分勝手で傲慢で……、可哀想な僕! そんな惨めな人間は死んでしまえばいい……。
 僕は生きていたい、人を愛したい、愛されたい。しかしそんなこと決して望めやしない。僕は間違えた人間であり、それによって今後全ての僕の生は罪深いものとして規定される。
 さようなら、伊東。さようなら、亜里沙さん、木綿子さん。僕は死をもってこの無限の苦しみを終わらせよう、愛されたいなどと考えた惨めな僕を葬り去ろう。この死によって惨めながら僕という人間にも誇りが、善への意志があったことを君たちが認めてくれることを祈ろう。さようなら、さようなら、僕は君たちを愛そうとしたが、弱い僕にそれは不可能だった。赦してくれ……。
 いや、こんなものを残すことは僕の弱さをどんなにか証明するだろう。最早無理かもしれないが、せめて僕は彼らに強い人間だったと思われたい……。

 僕はこのまま惨めに生き永らえるのが怖くてならない。
 人はいずれ死ぬ。しかし遺された者が彼を思い出す限りに於いて未だ彼は生きている。誰も彼を思い出さなくなった時、その存在は決定的な死を迎える……。
 僕は決して人に忘れられたくない……。いっそみんなが僕の死を悼んでくれる裡に……。結局僕などは最も弱い部類の人間だろう……。僕の弱さを赦してくれ……。そうして少しでも、僕を愛してくれ……。
 伊東、亜里沙さん、木綿子さん、どうか僕を忘れないでくれ。僕はどんなにかあなたを愛していたことだろう。僕がこの生涯で真剣に愛し得たのは、あなただけだ。

 【***】

 伊東真一は全てを書き終えると、隣で眠る従姉妹の寝息を聴きながら、小さく「ああ大丈夫、忘れるものか、」と呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


目次

【三年前 Ⅰ】
【三月二十六日 及び回想(冬Ⅰ)】
【某月某日 Ⅰ】
【河野 文学的断片Ⅰ】
【三月二十六日 及び回想(夏Ⅱ)】
【某月某日 Ⅱ】 
【掌編 一時間の空想】
【某月某日 Ⅱ (続き)】
【三月二十六日 及び回想(冬Ⅱ)】
【三年前 Ⅱ】
【手記 文学的断片Ⅱ】
【某月某日 Ⅲ】
【掌編 海】
【某月某日 Ⅳ】 
【三月二十六日 及び回想(夏Ⅱ)】
【日記 断片的抜粋】
【三月二十六日】
【某月某日 Ⅴ】
【三月二十七日】
【某月某日 Ⅵ】
【三月二十七日】
【或る日】
【三年前 Ⅲ】
【遺書】
【***】

 

一時間の授業

  一時間の授業   福永武彦と最愛の少女とに捧ぐ

 授業の終業を告げる鐘が鳴り響き、彼はその音に耳を傾けて後短くなった煙草を灰皿へ放って歩き出した、二限の授業に出席するために。彼は教室棟に入って直ぐの階段を上って少し歩き、教室のドアノブを捻って内部を窺いながら指定席とも言えるお決まりの座席を占めた。で、肩掛け鞄を下ろし、その中から数冊の文庫本を取り出して頁を適当に捲り始めた。
 彼のそうしている間にも、教室には学生たちが間断無く滑り込んで来て、彼らは少人数のグループを保ちながら各々好きな席へ腰を下ろしていった。そうして後から来た別のグループと融合したりして――友人を見付けた学生の威勢よく挨拶を交わす声がそこら中で響き渡って――教室内には分散しながら幾つものコロニーが出来ていったが、矢張り自らの孤独を守る為(或いは別の理由もあるだろうが)それらと距離を置くようにする学生も一定数存在し、彼もまたその中の一人だった。徐々に教室内の騒めきが高まっていくのに伴って、彼は苛立ちのような、何とも言えない遣る瀬無さを覚えた。
 彼は腕時計をちらと見遣って授業開始までまだ数分の間があるのを認めると鞄から煙草とライターとを取り出してその教室の出口へ向かったが、室内へ入って来る学生の群れによって大いに足止めを喰った。一瞬の間が空いたのを見逃さずに急いでそのドアを潜り抜けたが、その教室へ向かう学生たちの流れが彼を再び閉口させた。彼は人混みの隙間を縫うように早足で歩み、漸く教室棟から抜けだした。そうしてその出入口の直ぐ傍に設えられているベンチに腰を下ろし、煙草に火を点けるとそれを美味そうに喫んだ。吐き出される青白い煙が初秋の風に吹かれていき、その向こう側に、雑談を交わしながら群れて移動する学生たちの個体群が見えた。彼らは皆希望に充ちていて、この現在を真っ当に享受しているように思えた。
 人間嫌い、という言葉が彼の中に浮かんだ。モリエールの喜劇……、ベルクソンの謂によれば、「良識とは、相手が変わればこちらも相手に相応しく態度を変えるというような、相手と調子を合わすこと、その努力を怠らない心の粘り」だったかな。馬鹿げている。そんなことをしていれば、自らを見失ってしまう。しかし、失うのを恐れるほどの価値が、果たして僕という人間にあるだろうか……。傲慢な、そして青年期的な潔癖さ、それを保持しようと躍起になって、それを高めようと努力して、僕は次第に周囲との溝を深めていく。自らの手によって、自己と他者との間に淵をつくり、そうしてそれを拡大し普遍化して、「人間と人間との間にある絶望的な深淵」を意識し……、僕は自らの孤独の中に逃げ込んだ。
 「やあ。」
 その声が彼を思索から現実へと戻らせた。顔を上げると斉木という男が立っていた。斉木は彼に倣って煙草に火を点け、
 「調子はどう?」と訊いた。
 「別に普通だよ。」
 そう彼は素っ気なく返した、斉木相手にお愛想を言う気にはなれなかったから。しかし、取り敢えずお座なりにでも会話を保たせようという考えから、
 「君は?」と儀礼的に訊いた。
 「うん、まあぼちぼちかな、」と斉木はその言葉の端に何かを忍ばせるようにやけながら言った。
 彼は煙草の短くなったのをいいことにそれを灰皿に押し付けて丹念に火を消すと、
 「じゃあ、」と言って腰を上げた。
 斉木は物言いたげな眼差しを隠すように軽く会釈をした。
 彼は今の会話の印象、特に斉木の笑みから逃げるため、また教室へ始業の鐘がなる前に戻るため、急いで階段を駆け上がった。そうして学生とその騒めきとに満ちた室内の混雑の隙間を縫うように歩いて、既に取ってある席へ腰を下ろした。急いだ所為かほんの少し息が上がっていたから、彼は深呼吸をした後、眼を細めて前方の教壇を見遣り、教授である痩せた老人が黒板に書いている文字を読もうと試みた。彼の席はそれなりの大きさを持った教室の中列辺りだったが、視力の弱い故黒板に書かれた文字を読むことは出来なかった。
 でも別に読めなくてもいい、と彼は考えた。今書いているのは恐らく授業中に改めて教授の口から話されるだろうから。しかしその内容は僕を満足させるだろうか。精神的荒廃の中にある僕の魂は、その偏屈さ故に多くのものを受け付けない。そもそも人が人の魂を変革させることなんて滅多にないし、この場合は教授と学生と、という上下関係のせいで、僕くらいの年頃の青年にはその発言の善し悪しに関わらず、反感を持って受け止められるだろう。勿論尊敬を、心酔を紐帯とした上下関係ならそういう風にはならないだろうが。
 彼は文庫本を手に取って没我せんと試みたが、矢張り周りの学生たちの私語なんかに気を取られたから、それを諦めて何とも無く視線を周囲に彷徨わせた。と、一つ後ろの列に席を占めた一人の女学生と眼が合った。彼女は本の頁を繰る手を止めた。彼女の美しい瞳の印象が彼を強く惹き付けた。自らの無礼を恥じて彼は直ぐに正面へ向き直ったが、しかしその胸中では今の一瞬の結晶作用が行われていた。その瞬間は彼をして永遠を思わせ、それへの憧憬を生んだ、一つの楽器の音色が、その先の美しい調和を思わせるように。それはベルリオーズ幻想交響曲の始まりを思わせた。夢、そして情熱……、彼はそうして陶酔へ身を任せながらも、中世の聖職者、ニコラウス・クザーヌスの思想――“絶対的極大”つまり同時に“極小”でもあるところの極大である。神は極大と極小との統一である――を思い出した。そういう仕方で彼は理性と感情との統一、美しき調和をその内部にて試みた。
 彼女のその瞳、少し癖のある黒い髪、質素で趣味の良い藍色のワンピース、そこにあしらわれた小さな花たち、頁を捲る手付き、その音楽……、そういったこの女性を構成している要素、その僕に与える印象、それが僕のこの貧しい現実、乾いた、ざらついた内部の渇きに染み入ってくる。この観念の美を愛することで僕の魂は美しく浄化され、輝くだろう。そして僕はそういう仕方でこの名も知らぬ少女を愛している、と言ったらおかしいだろうか。何も彼女が美しいからという理由で、一目惚れのように思いが高まったわけでは決してない。これはそういう類のものではない。確かに綺麗な人だ、しかしそんな人はそこら中にいる。僕の内部にこの反応を、陶酔を惹き起こすということが大事なのだ。それは僕の側だけに起こったことかもしれない。しかしそれでいいのだ。それ故にこの想いは純粋なのだ。ああ、この胸の高鳴り、精神の純化……。謂わば僕は彼女自身ではなく、その僕に与えた印象を愛しているのだろう……。
 と、始業の鐘が鳴って、彼は夢想を打ち切った。教授が教壇へ上り、マイクを使って学生に呼び掛けた。
 「授業で使う資料が一番前の机に置いてあるから、皆さんそれを取りに来てください。混雑するだろうが……、周りを見ながら譲り合ってください。」
 彼は暫く辺りを窺いながら文庫本の活字を追い、自分の周辺の学生たちが腰を上げると彼らに倣うように立ち上がって歩みを進めた、自らの後ろに例の女学生の雰囲気を感じながら。彼には先ほど感じた印象の持続が尚も感じられ、そのことを喜ばしく思った。そうして数枚並んだ資料へ、自分に遅れて伸びる彼女の白い手、先の方が朱に染まった美しい指の、その丁寧な動作を盗むように見た。美しい髪の毛から、花のような可憐な香りが香り、再び二人の眼と眼が合った。資料を手にして席へ戻るまでの間、彼は彼女の足音に耳を傾けていた。
 席に着く際に、彼はさり気なく彼女の占めた机を見た。彼女は彼の右斜め後方の席を占めていて、その周辺には彼と同じように、周囲との隔たりがあった。それが彼女に寂寥とでも形容出来るような、一種の静謐な、そして清純な雰囲気を与えていた。その机に置かれたハードカバーの本に彼は見覚えがあるように思った。が、その本はタイトルを隠すように伏せられていた。
 孤独の雰囲気が、僕と彼女との魂を近しくしたのだ、と彼は考えた。そうしてその二つの孤独が不意と接近して束の間の調和が生まれたのだろう、少なくとも僕の側には。しかし或いは……。いや、もし僕が彼女を愛して、彼女も僕を愛したとしても、それが結局何になるだろう……。
 彼は暫し教授の方を見遣ったが、その話は傾聴するには値しないと判断し、文庫本へ集中しようと試みたが、後ろから聞こえた頁を繰る音にその意識は占領された。授業よりも読書を優先するというのは、一般的に考えたら彼女の(そして彼の)不真面目さの証するように思えるが、彼はそれを文学への傾倒の証だとして好ましく思った。で、見える範囲で教室内を、学生たちの様子を窺って見て、彼は自分の内部に描かれた幸福な情景――この人熱れのする教室の中で、僕と彼女とだけが自らの孤独を守り、距離を近くして書物に傾倒している――の現象しているのを確かめた。そうして彼は二人の頁を捲る音に傾聴して、空想に精神を委ね、様々の可能性に思いを馳せた。
 ……終業の鐘が鳴り、彼はさり気なく彼女の席を立つのを待って、自らも腰を上げる。孤立している二人は、多くの学生たちが友人と交歓のために歩みを止めたり、或いは学食の方へ向かって行ったりするのとは無関係に歩みを進めたから、次第に並んで歩くような形になる、まるで魂の清い二人だけが濾過されたように。彼には先程描いた幸福な情景を根拠に、彼女に話しかけても大丈夫だろうという気がしている。僕と彼女とは共通の境遇にあるのだから、少し話しかけたくらいで厭な顔はされないだろう、それに、傍から今の僕らを見た人がいたとして、その人が僕らを友人関係として見てもおかしくはないのじゃないか、と考えたから。そうして不意と、
 ――あなたも、あの授業が退屈だったのです? と訊く。何か本を読んでいましたね。
 彼女はその言葉を受けて、ほんの少し逡巡したものの、彼が先程傍に座っていた青年で、その流れで今に至っているのだから、彼もまた自分と同じような境遇にあることを意識して、
 ――ええ、と答え、でも退屈だとは思っていません、と続ける。退屈というより、……こういう言い方をしたら失礼かもしれませんし、あの講座の性質上しょうがないことですが、すこし初歩的過ぎるように思えます。
 ――そうかも知れませんね、と彼は笑んで言う。ところで何を読んでいたんです?
 彼が尋ねると、彼女は手提げ鞄から一冊の本を取り出してその表紙を見せる。
 ――ああ、道理で見覚えがあると思った、と彼は独り合点して言う。さっきその本の机に置かれているのを見たんですが、見覚えだけはあったけど分らなかった。K…さんの全集なんですね。僕はその人の著作は文庫で読んだから。
 彼の喋るのを彼女は静かに聞く。その瞳は彼がその作家の読者であるということを知った時、少し輝きを増したように見える。
 ――一巻ということは、初期の短編と、あとは中編とですか、と彼は続けて訊く。
 ――そうです、『S…』という作品を読んで興味がわきまして。
 ――ああ、あれは良いですね。僕も読みました。でも珍しいですね、K…さんを読むだなんて。
 ――周りには読んでいる人はすくないですね。あなたは何を読んでらしたんです?
 その質問を受けて、彼はその作家の小説の文章――この魂の静けさ、この浄福、この音楽、この月の光……。僕は今死んでもいい、こうやって、君を愛しながら、いま、――を思い出す。
 ――僕は……、
 と、マイクを持って何かを喋りながら歩んでいた教授が彼の傍へと至ったから、彼は礼儀的に空想を止めて開いていた文庫本を閉じ、後方に於いて同じような動作の行われたのをその音と雰囲気とから推察した。不意と教授が近くに座っている学生たちへ向けて質問を投げ、その辺りを中心にして沈黙が広がった。教授は幾つかのグループそれぞれへ、「君は先程引用した詩句から、何を感じましたか?」と質問をし、数人の学生がへどもどしながら自分の考えを述べた。教授は彼と彼女との座っている方を見て、そちらにも意見を訊いた。二人はどちらが答えるべきかと見詰め合ったが、お互いに出来れば答えたくない、ということを諒解し合っただけに過ぎなかった。
 「僕は、……よく分りません、」と彼は言い、「その詩人を信頼していませんから、」と続けた。
 「正直でよろしい、」とだけ言って、教授はまた別の方向へ質問を投げた。
 二人は再度眼を見合わせた後に読書へ戻り、彼は中断された夢想へ取り掛かった。
 ……彼と彼女とは大学構内に設えられたベンチに隣り合って腰掛け、先程の授業のことについて雑談を始める。肌寒さを感じさせる風が吹いて、少女は藤色のカーディガンを羽織り、彼はその姿を正面からみたいと考えて、立ち上がる。そうしてその動作の理由を示そうと、少し離れて煙草に火を点ける。不意と改まって、
 ――そういえば、あの時、答えてくださってありがとうございました、と彼女が礼を言う。
 ――いえ……、と彼はそれに応える。あなたの方がうまく答えられたかも知れません。僕のあの拙い意見なんかより、あなたの方がよっぽど、
 ――いいえ、私あの時本当にどうしようかと思いました。だって話を聞いていなかったし、そもそも誰の詩句を引用したのだろうかとばっかり考えていました。
 ――誰だったんでしょうね。
 彼のその言葉を聞いて彼女は、
 ――あなたも聞いていなかったんですか、と微笑みながら言う。あどけなさを証するような白い歯が見える。
 ――ええ、本を読んでいましたから、と彼は言い、煙草を吸って青白い煙を吐く。でも多分詩人が誰だか分っていてもああ答えていたと思います。だって詩人はその心情を、彼独特の方法で表現しますけど、それを理解するなんてよっぽど魂の近い人とじゃ無いと無理ですよ。
 ――そうかもしれませんね。
 ――もしそんな人がいたら……、
 辺りが騒めき始めて、彼は自らの腕時計を見て時刻を読んだ。授業の終わる時間だった。彼は背後に彼女の本と筆記用具とを片付ける気配を感じた。その動作からは、彼は今までのような細やかな幸福を感じることが出来なかった。終業の鐘が鳴った。
 もうこれで終りなのだ、と彼は考えた。彼女との繋がりは断たれた。幸福の錯覚は消えた。彼女の美しい印象は次第に色褪せ、そうしていつしか完全に消えてしまう、泯びてしまう。果たしてそうだろうか? あの瞬間は永遠なのだ。あの瞬間に於いて僕は永遠を見た。その陶酔、眩暈、恍惚……、そして今の僕の感じるこの渇き、執着、それがこの思いの強さを物語って、証しているじゃないか。もしそれが印象だとしてもいい、彼女の名前をすら知らないとしてもいい、例え人が僕を笑ったっていい、非難したっていい、僕は彼女を愛している。しかし。
 彼はいつの間にか配られていた受講票への記入を済ますと、人混みを掻き分けるようにして教壇へ至り、それを提出し、辺りを窺い少し離れた所に彼女の姿を見付け、その後ろ姿を追った。先程空想した通りに彼の名付けたところの濾過作用が起きて、二人は並んで歩き始めた。彼は何気ない風を装ってその歩みを進めていたが、彼女がちらとそちらを見たことに気付かない筈がなかった。しかし。
 挨拶くらいならしてもいいだろう、何故なら僕と彼女とは全く無関係というわけじゃないのだから。しかし、僕の夢想、あの美しい未来は、僕によって一方的につくられたものであり、それ故に美しいのだ。そこには僕の自由がある、輝かしい未来がある、無限の可能性がある。しかしそういう仕方で彼女を愛するのなら、僕には現実を犠牲にする必要があるだろう。いや、そんなことはない筈だ。現実を夢の境地へまで高めることこそが、本当に生きるということだ。しかし、しかし。……これまでにも何度か、人を愛そうとしたことはあった。しかし愛した人は僕を去った。結局人は孤独なのだ。だとしたらその孤独を守り、自分のみを恃んで生きるしかないじゃないか。そうだとするなら、この自らの内部にある美しい印象のみで満足すべきじゃないか。そうしていればその印象は、彼女は美しいままに保たれる。何も無駄に自らを傷付けなくてもいいじゃないか。しかし、それは自らの生に対して逃げを打つというものじゃないだろうか。……僕は彼女を愛しているのだ。傷付いたっていい、彼女が僕の愛を拒んだっていい。愛することで、人はその孤独を靭くするのだ……。しかし。
 途中で彼は歩みを止めた。そうして近くのベンチに腰を下ろして煙草に火を点け、彼女の去って行く後ろ姿を眺めた。次第にそれは小さくなっていき、彼女が大学の校舎を抜けると完全に見えなくなった。
 彼が煙草の灰を落とすと、それは風に吹かれて飛んでいった。風を眼で追いながら彼は、「名前も知らない、ただ偶然席を近くしたというだけの少女だ、」と口の中で呟き、「しかし僕はもうこんなにもあの少女を愛してしまっている、」と続けた。
 しかし彼の空想した未来は、ひょっとしたら本当になるかも知れない。それはあり得ることだろう、彼に自らの夢を現実へまで高め、力強く生を生きようとする意志がありさえすれば。

 

自鳴琴

自鳴琴

Je dédie ce roman à une fille que j'adore.

 『クレーヴの奥方』と『ドルジェル伯の舞踏会』とを下敷きにして……

 

 心理がロマネスクであるところの小説。
 想像力の唯一の努力がそこに集中される。即ち、外的な事件にではなく感情の分析に集中する。
 もっとも純潔な小説と同じくらいに猥らで貞淑な恋愛小説。粋(élégance)には一見下手な着物の着方をすることが必要であるように、文章の拙い形式。(ラディゲのメモより)

 

 【春】 

 

 呉田遼平は早まる胸の鼓動を落ち着かせようと強いて普段よりもゆっくりと歩き、更には故意に遠回りの道を選びさえして待ち合わせ場所へと向かった。その喫茶店の看板が見えたから、彼は腕時計をちらと眺めて時刻を確認したが、まだ約束の時間迄は十五分程あった。早く着き過ぎたな、と苦笑しながら店の扉を開くと、その扉の上部に設えられたベルが鳴り、人の良さそうな笑みを浮かべた店員が彼を迎えた。彼がその店員を見るのは初めてだった、もう随分とこの店へ通っているのに。
 僕らは平日にしかこの喫茶店へ寄ったことがなく、従ってこの店の休日の顔を見るのは初めてなのだ、と彼は考えた。その新しい発見が彼を喜ばせて、最早全てが幸福の光の下にあるようにさえ思えるくらいだった。彼はぼんやりと店内に流れる音楽に耳を傾け、数分後には約束された幸福がこの喫茶店のベルを鳴らしてやって来るのだ、と考えていつもの席に腰を下ろすとその眼を閉じた。
 呉田遼平には意中の乙女があった。彼とその少女とは、その事端に於いては家庭教師とその生徒という関係だったが、今年からは同じ大学の先輩と後輩と、という関係になった。彼は自分とその少女との関係を恋人同士へまで亢めたいと嘗てから考えていて、この日は初めて二人が示し合わせて休日を共に過ごす記念すべき日なのだった。
 扉のベルが小気味好い音を響かせたのを聴いて呉田遼平は顔を上げた。店外の明るい光を後ろから受けた立花岬の姿は彼をして、まるで天使のようだ、とさえ思わせた。彼女は直ぐに彼を認めて近付き、その向かいの椅子を引いて慎ましい動作で腰掛けた。彼は店員を呼び、いつものようにコーヒーとミルクティーとを注文すると、自らの眼前にいる美しい少女の澄んだ瞳を偸むように見た。そうして、
 ――晴れてよかった、と言った。
 立花岬はそれに和して静かに頷いた。
 ……それから暫し後、店員がやって来てブラックコーヒー、ティーポット、ミルクポット、カップをテーブルへ丁寧に置くと二人は静かに礼をした。立花岬は小さなミルクポットをその細い指で摘むとそれを傾けてカップへ注ぎ、次に紅茶を注いだ。そうしてテーブルの隅から砂糖瓶を取って砂糖を三匙分入れ、ティースプーンで静かに掻き混ぜ始めた。呉田遼平はその様子を眺めながら、彼女がその拘りについて、「ミルクが先か、紅茶が先か、の問題はイギリスで百三十年も争われた末に漸く王立科学協会によって調停されたんですよ、」と熱心に語り、そうすることの出来る喫茶店へしか入りたくないと少女らしく言い張った時のことをしみじみと思い出すのだった。
 それは僕らが初めて一緒にお茶をした時のことだったな……、と彼は改めて意識した。僕らが参考書を選ぶため本屋へ行った時のことだった。その頃彼女はまだ高校生で、我儘が、大人びようとする気取りとのそのちぐはぐさによってとてもよく似合うような時期だった。僕は彼女の可愛らしい願いの為に幾つかの喫茶店を回ることになったのだが、苦労さえも愛しく思えた。……それが今や本物の所作となって実によく調和している。彼女のカップを取る手付き――その美しい三本の指で取っ手を摘む仕草の嫌味のない上品さ……。
 ――コーヒーが冷めてしまいますよ? と立花岬が言った。
 彼はその言葉を受けてお座なりにコーヒーに口を付けた。その苦味が現実感覚を取り戻させたが、しかし彼には尚も自分が夢見心地の中にいることが意識された。
 ――相変わらず君は、綺麗な手付きでミルクティーを飲むね、と言った。
 それは彼が毎回のように口にする言葉だった。最初のうちは、彼女の気取りを冷やかすような調子を帯びていたものだったが、今やそれは心の底からの真摯な言葉となっていた。彼女はそれを聞いて微笑んだ。
 二人はカップを空にするまで取り留めのない雑談を交わした後会計を済ますと、この日は少し遠出して湖畔の美術館を訪ねることにしていたから駅を目指した。改札を通り抜けて、人でごった返すプラットフォームに立って次の電車を待ったが、数分後に滑り込んで来た電車は急行故か人でいっぱいだったからやり過ごすことにし、次の各駅に止まる電車に乗り込んだ。そのお陰で二人は無人ボックスシートを向い合って占めることが出来た。彼は車窓から差し込む晩春の光に照らされながら、窓外へ視線をやっている彼女の秀でた横顔を眺め、自分が幸福であることを靭く意識した。幸せな時間はあっという間に過ぎるものだから、目的の駅に着くのが彼には本当に早く感じられた。改札を出ると二人は真っ直ぐに美術館を目指して歩き始めた。
 呉田遼平はその道すがら、彼女の手を取りたいが、しかしどうしたら良いだろうか? と一人悩んでいた。彼女のその白い手を眺めながら、急に手を取っては無遠慮だろうか、と考えては、じゃあ許可を取るべきだろう、という結論に至り、声を掛けるタイミングを計りながら、ちらちらと彼女の眼を見たりした。しかし結局彼は臆病だった。
 その彼の煮え切らない態度から立花岬は、一体この人はどうしたのだろう? と考えた。私の方へ何回も視線を彷徨わせて、でも何も仰ってくださらない。折角普段よりもおめかししているのだから、少しくらい服装を褒めてくださったっていいのに、ずっと陰気な顔をしていらっしゃる。……もしかしたら私一人が浮かれていたのじゃないかしら? それってとっても滑稽なことだわ。
 彼女は彼からのデートの誘いを受けた時はあまりその申し出を魅力的なものとは思えなかったのだが、しかし義理のようなものからそれを承諾した。で、何となく女友達にそのことを話してみるとその友人は俄に活気付いて彼女を引っ張り、洋服屋の並ぶ区画へ向かった。そうして彼女を着せ替え人形のように扱った。立花岬はまるで自分がマネキンにでもなったように感じたが、彼女もまた女性なのだからその友人の行為に尠くない快感を覚え、気が付けばデートを楽しみなものとして考えるようになった。それなのに彼女の自尊心を擽るような言葉を呉田遼平は一言足りとも口にしなかった。それが彼女の傲慢な、少女らしいプライドを傷付けた。
 彼らは美術館へ到着し、呉田遼平が入場券を買ってそれを立花岬に渡して二人は展示を見始めた。その環境が呉田遼平に良い効果を与えた。呉田遼平は最早どんな絵画を見ても満足することが出来なかった、自らの隣に何よりも美しい少女がいたから。彼は他へ視線をやる暇があるのなら彼女をひたすらに眺めていたいくらいで、二人の視線は屡々交わるようになった。遂に彼は堪らなくなって、
 ――君は、……とても綺麗だね、と囁いた。
 その一言で呆気無くそれまでの蟠りは解けた。呉田遼平は既に美術品への興味を殆ど失っていたから、さり気なくその美術館を出てその傍にある湖の周りを散策することを提案し、立花岬がそれに賛同したから彼らはそこを後にした。
 二人は湖へ向かう遊歩道を歩き始めた。白樺を背景に躑躅の植え込みが続き、ところどころにそれを区切って花壇が作られており、そこには季節の花々が可愛らしく咲いていて彼らの眼を楽しませた。立花岬は不意と屈み込んでは花毎に立てられた説明板の文字を熱心に追い始めるのだった。
 自制心、節制、……赤色の花だったら恋の喜び、白だったら初恋。呉田さんは多分私に恋をしている。……でも、私には恋とは何なのか、どういうものなのかがまだ分っていない。先程綺麗だと言ってくださったのは嬉しかったし、この人の傍にいるとなんだか安心することの出来るような気がする。……この安心が恋なのかしら?
 次に立花岬は白いアネモネの群がって咲いているのを見付けて屈み込んだ。彼女は赤や紫などの毒々しい色のアネモネがあまり好きではなく、白色で、尚且つその中心部の黄色いものに限っては幾らか好ましく思っていたが、矢張り白いものを見ても不吉そうな色の花弁を想起してしまうのだった。
 アネモネ、恋の苦しみ……、と彼女は考えた。恋には美しい面だけじゃなく、そういうネガティヴなものもあるはずだわ。不安、嫉妬、懊悩……、そういうものが恋を亢めるのでしょうか。いいえ、恋の中にあってはそれらさえも美しいはず。でも……、
 呉田遼平には、立花岬の可憐な花弁を一心に眺める姿はまるで自然の美への祈りのように見えた。彼女はその美を表出し始めた花々の中にあって真にそれらと調和していたから、彼には彼女こそがその自然の完成者のようにすら思えた。恋する男にはおよそ全てのものがその意中の女性を飾るためだけの存在に思えてくるものだ。彼は最早現実を正しく見得ない、彼はその経験によって自らの世界が全く変容してしまったことに気付く、彼女の瞳の光、風に靡く髪の毛、白く皮膚の薄い肌、薔薇色の頬、野苺のような脣……、彼女は今や世界の秩序の中心に据えられている。彼はただ呆然とその眩暈的な歓喜の中に立ち尽くして、その光景を時間の観念すら喪失したように眺めていた……。
 不意と立花岬が立ち上がって辺りを伺うような視線で呉田遼平の瞳を捉えた後歩み始め、呉田遼平もそれに続いた。彼は先を行く少女の花車な後ろ姿を眺めながら、何か話し掛けてみようかと考えてみたが、折角の調和を壊すような気がしたからそれは憚られた。彼の内部では叫び出したいほどの喜びが奔出し得ぬまま、しかし今にも迸り出そうになりながら亢まり続けた。
 白樺林の散歩道を抜けて彼らは湖の畔に出た。既に太陽は西に傾き、どことなく黄昏の雰囲気が漂い始めていたから彼は当初考えていた手漕ぎボートに乗るという計画を諦めた。その所為で中途半端な時間が生まれ、二人はそれを持て余すような気分で駅へと向かった。
 こうして彼女と一日を過ごせたはいいが、しかし僕には決定的な行動に出ることが出来なかった、と彼は考えた。とするなら、この一日は特に明確な意味を持ちやしない。つまり、今日のデートは今までのような、喫茶店やらで過ごした無為の時間の延長に属するということなのじゃないか。確かに僕らに共通の思い出を作ったかもしれない、その絆を幾らかは靭めたかもしれない。しかし、今までの関係性から抜け出さない限り、それらは無意味だろう。……客観的に見ればこの一日にも大いに意味はあるはずだ、これは大きな前進のはずだ、こうして徐々に僕らの関係を靭めていけばいいはずだ。しかし僕には到底満足できない。僕は彼女に言い寄ってくる男を退ける権利、それを保証された立場を得たいのだ。それを得るまで僕の焦燥は続くだろう……。だからと言って急いてはいけない。しかし……。
 ――何を考えていらっしゃるんです? と立花岬が訊いた。
 彼は逡巡しながら彼女の瞳を見詰め、立花岬はその視線に対して笑みを浮かべた。
 ――ええと、そうだなあ……、と彼は猶予を作って言葉を選び、さっきあの白樺林で君は白い花を見詰めていたね、あれは何ていう花なんです? と訊いた。
 ――あれはアネモネの花です。
 ――そうなんだ。君はアネモネが好きなんですか? やけにじっくりと眺めていたようだが。
 立花岬はその問への返答を躊躇った、直ぐに好きか嫌いかを答えてしまえばなんでもなかったろうに。で、彼女は困ってしまった。これだけ時間を使ってしまっては、怪しまれるかも知れない。誤魔化すことは不誠実に思える、今まで一度も呉田さんに嘘を言ったことなんかないのだし……。でもだからと言って先程考えていたことを吐露してしまうのは恥ずかしい。
 彼女はその恥ずかしさを恋であると一瞬錯覚しかけたが、直ぐにそれを振り払った。そうして、
 ――アネモネには様々の色があるんです、と言った。赤や青や黄や紫や……、それなのに白いものしかあそこにはなかったから、それを少し不思議に思って……。
 ――へえ、やっぱりその色毎に花言葉なんかも違ってくるんです?
 ――ええ、と言って彼女はさっき読んだ説明板を思い出そうと試みた。白だと……、確か期待、希望、真実です。
 その言葉を聞いて反射的に呉田遼平は、
 ――君によく似合いますね、と言った。
 立花岬は顔を赧らめた。それを見て彼は遠慮勝ちにその左側を歩く立花岬の右手へ自らの左手を伸ばした。しかし、彼は矢張り臆病だった。が彼は尚も懸命にその試みを為そうとして、喉から声を振り絞るように、
 ――ねえ……、手を繋いでもいいですか? と訊いた。
 ――ええ、と立花岬は答えた。
 呉田遼平は怖ず怖ずと彼女の手を取った。それは陶器のように滑らかでひんやりとしており、彼はそれ迄自らの節くれ立った手を基準にして彼女の肌を想像することをしか為し得なかったから、彼女の手に触れた時の衝撃と歓喜とはひとしおだった。そうしてその眩暈の後には彼女の手を触れることを許されたという喜びが彼の心中を満たした。
 それと同じような効果は立花岬の内部では起こらなかった。彼女の胸は特に亢まることもなかったし、何より彼女が感じたのは安心のみだった。確かに安心は愛の一要素かも知れないが、しかしこの場合のそれを愛の最初の段階と言うのは誤りだろう。愛の結晶作用を経た後の安心だったなら、それは何よりも素晴らしい一つの調和なのだろうが。

 

【過去(遡行的)】 

 

 むかしのあこがれはまたさながらに戻つてきて

 暗いうたかたに咽び泣いてゐる

 灯のともつた鐘楼からひびきは黄昏にこだましても

 椿の花はもうこの流れを流れてはこない

       福永武彦『ひそかなるひとへのおもひ』より

 河野晶は人々の寝静まる頃になるのを待って下宿を出、辺りの静寂に耳を傾けながら家々の建ち並ぶ住宅街を抜けて河沿いの歩道へ出た。不意と彼は夜の光を受ける紫陽花に眼を留めると、その寂しそうな顔の口元に微かに笑みを浮かべた。彼は尚も河の畔を暫く歩み、散歩者の為に設えられたベンチに腰を下ろして煙草に火を点けると、河の流れに眼を遣った。彼の心の涯しの方を、その河の穏やかなせせらぎが優しく洗う。

 ……あれは初春の夜のことだった。僕はその頃から出来し始めた不眠症に苦しんでいて、ベッドの上にじっと横になっていたものの自らの心臓の鼓動がそのベッドを揺らすように思えてたまらず自室を飛び出した。春といえどもその異国の街はまだ肌寒く、そうして静まり返っていた。僕は我武者羅にその街を、まだ道すらも覚えていないのに突き進んで名も知らぬ河の畔に出た。美しい月がその河の面に揺蕩っているのが僕をしてそこへ腰掛けさせた。僕はクリスチャンではないがその時は柄にも無く、この美しい光景とその静寂とを創った造物主がいるならそれに感謝したい、とさえ考えた。それから僕は決まって夜中になると粗末なアパルトマンを抜け出して市内をあても無く彷徨いた後に、その河の畔に佇むようになった。
 春も終りに近付いたある晩、いつものように河の流れを見詰めていると数輪の椿の花の流れて来るのが眼に入った。川上の方へ眼を遣ったが特に椿の咲いている様子は無く、僕は不思議に思い、腰を上げて歩き始めた。その河沿いの道には街灯が続いており、その光が自分を誘っているかのように思えてきた。何となく街灯を数えながら歩みを進めていると、十四個目のそれの下に、上方からの光に照らされている一人の少女の姿が眼に入った。その少女は花の無い花束を持っていた、悲しそうな表情で河の流れを一心に眺めながら。
 僕の足音を耳にしたのか、その少女は顔を上げて潤みをもった瞳でこちらを見た。
 ――こんばんは、と僕は言った。
 その発音が不明瞭だったのか、彼女は尚もその瞳で窺うようにこちらをじっと凝視し続けた。
 ――こんばんは、ともう一度言った。
 ――こんばんは、と彼女は美しい発音で挨拶を返した。
 僕が何か話しかけようとした時、川上の方から一人の紳士がやって来て彼女と会話を始めた。僕には彼らの言葉を聞き取ることは出来なかったが、不穏な何かがその会話に影を落としていることだけは諒解された。次第にその男性の言葉に怒声のようなものが混じりだし、僕は気不味さを覚えてその場を後にしようとした。去る前に一度ちらりと彼らの方を見遣ると、少女の悲しそうな眼と僕の眼とが合った。その眼は助けを求めているようにも、しかし全てを諦めているようにも見えた。僕は後ろめたさを靭く感じながらもその場を離れることにして、足早に歩みを進めた。しかしその印象を拭い去ることは出来ず、それは次第に罪悪感のようなものへと亢まって僕を苛んだ。僕は我武者羅に歩き続け、朝日の上った頃に漸く自分の部屋に戻るとそのまま着替えもせずにベッドへ向かい、倒れるように眠りに落ちた。
 眼を醒ます頃にはもう陽は沈み掛けており、僕はシャワーを浴びた後、簡単な食事を認めると煙草を片手に出窓へ腰掛けてその窓を少し開けた。
 商人の威勢のいい文句の響く街を、あどけない少年少女たちが駆けていく。彼らに遅れて、一人の少女が友達の名を叫びながら追い掛ける。広場のベンチに腰掛けた老人がそれを微笑ましく見詰めている。着飾った娘が街を見下しながら――その少女はそれと同時に自分をも見下している――広場を横切って行く。
 黄昏に響き渡る街の音を聴いていると不意に、「人々は生きるためにこの都会へ集まってくるらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ」というリルケの『マルテの手記』の最初に書かれている文章が僕の内部に浮かんだ。「だからどうしたっていうんだ、」と僕は小声で呟いてみた。煙草が指を焦がす程短くなったのに気付いてそれを灰皿へ押し付けた。その孤独の部屋で夜を待って、僕は河へと歩き出した。
 いつもの場所から十四個目の街灯まで僕は歩いた。そうして河の流れを見るともなく眺め始めた。そこから見る河はいつもと違って余計に物悲しいように思えた。僕はどのくらいその孤独の音に耳を傾けていたことだろう。
 ――こんばんは、と言う声が聞こえた。
 僕が後ろを向くと、昨日の少女がそこに立っていた。
 ――こんばんは、と僕は返辞をして、昨日振りですね、と続けた。
 少女は静かに頷いて、
 ――昨日はお見苦しいところをお見せしまして、と言った。
 ――僕には何も分りませんでした。僕はこの国の人間じゃないのです。
 そう僕が言うと、彼女は何か腑に落ちたような仕草をしてから、僕の為に明瞭なゆっくりとした発音で言った。
 ――何かをお勉強中ですの?
 ――春からこの国に留学しているのですが、特にこれといって……、まあ絵画や音楽やを本場で鑑賞するために来たようなものです。
 不意と彼女の瞳に影のようなものが差した。
 ――ごめんなさい、私もう行かなくちゃ、と彼女が言った。
 そうして僕の言葉も待たず、彼女は歩き出した。僕がそれに着いて行くのに気付いて、彼女は対岸へ渡る橋の袂で振り向いた。
 ――ついて来ては駄目、この橋の向こう側は危ないところだから……、と言った。
 僕にはその意味を理解することは出来なかったが、彼女の言葉に従って回れ右をして歩き始めた。僕が下宿へ帰ってその扉の鍵を下ろした時、部屋の時計が午前一時を報せる鐘を鳴らした。僕は適当な本を数冊机に置いて、孤独と静寂との中で勉強を始めた。書物から気に入った言葉を見付けてはそれをノオトへ書き込んだ。煙草の吸い殻が灰皿を一杯にした。僕の生が灰となって、そうしてそれだけが溜まっていく、……しかしいつしかその灰の中から不死鳥が羽撃き始めるように僕の生は再び動き始め、僕の魂は蘇るだろう。僕は数行の美しい詩句を生み出そうと試みた。午前二時の鐘が鳴った。不意とアイデアが湧いたような気がしてノオトにペンを走らせた。しかし途中から勢いを失った陳腐な死んだ文字だけがノオトを埋めるに過ぎなかった。僕は只管に霊感を待った。が、それは一向に捗らないまま徒に時間だけが過ぎた。僕は少し眠った。午前四時の鐘を聞いて、僕は再び河へ向かった。そうして彼女の面影を求めて暗い水面を凝視した。
 夜明けの光の差す頃、石畳をこつこつと鳴らす靴音が聞こえてきた。僕がそちらへ眼を向けると、そこには彼女の姿があった。彼女は僕を認めると驚いたような表情をして、
 ――まあ、あなた、ずっとそこにいたの? と訊いた。
 ――いや、一時間程前からです、と僕は答えた。あの後下宿へ戻って、暫く勉強をしました。そうして一眠りしてまたここへ来てみたのです、あなたと会えるかも知れないと思って。
 僕がそう言うと彼女はその唇に指を当て、少し考えるような仕草をした。そうして、
 ――好かったら少し散歩をしましょうか、と提案した。時間はあるのでしょう?
 そう言うと彼女は川上の方へ向かって歩き始めたから、僕は慌ててそれに従った。僕は彼女に追い付くとその右側を歩いた。朝の爽やかな風が彼女の色素の薄い髪の毛を揺らし、花のような香りが香った。それは快活な、最初会った時とは違う印象を僕に与えた。僕は心の中でその二つの対照的な印象について考えた。そうして彼女の方をちらちらと見遣り、その度に僕は美しいものを偸み取るような快感を味わった。僕らは無言で歩き続け、教会の傍のベンチに腰を下ろした。厳かなパイプオルガンの旋律と賛美歌の調べとが微かに聴こえてきた。
 ――ねえ、あなたは信仰を持っていて? と彼女が訊いた。
 ――信仰ですか、僕はヤンセン主義者のようなものです、と僕は言った。人間は惨めな、弱い生き物です。神の恩寵、神の教えが無い限り決して救われやしません。
 ――私もそう思うわ。
 ――しかし、僕の国には信仰なんてありやしないんです。ソドムやゴモラのようなところですよ……。
 ――それでも、教会はあるのでしょう? そこに神を信じる人々はいるのでしょう?
 ――ええ、しかしそれは借り物の神様のようなものだと僕には思えるのです。僕らの文化ではない。僕らの生の土台になるようなものじゃないんです。そりゃ彼らは真剣に信じているでしょう。でも、僕には、そして大多数の人間には関係のないところで彼らは祈っているのです。僕に信じられるのは、神の恩寵とその教えとの欠けたキリスト教、つまり人間の惨めさと弱さとだけです。
 ――それってとても悲しいことね……。
 ――ええ、と僕は言った。だから僕の拠り所といえば自分の孤独くらいですね。その孤独を恃むことをしか、僕には出来ないのです。
 ――私、あなたのために祈ります。
 ――ありがとう。
 その後は取り留めのない雑談を交わし、僕は彼女の名前がシルヴェーヌであることと、今年で十八歳になることとを知った。僕らはまた翌日の朝にこの教会の前のベンチで会うことを約束して別れた。僕は彼女と過ごす幸福の想像を弄びながら下宿へ帰り、幾らか勉強を試みた後に眠った。
 
 眼を醒ましたのは夕方だった。僕は黄昏に染まる街を眺め、不意と外出でもしようと考えて簡単に身嗜みを整えると下宿を出た。が、特に行く宛も無かったので広場の噴水の縁に腰掛けて何となく人々を観察し始めた。僕は十分ほど様々の人々を眺めたが、その中にシルヴェーヌよりも美しい女性は一人もいなかった。そのことが僕を満足させ、それを明確に意識した瞬間、僕には僕が彼女を愛し始めているということも意識された。それはとても甘美な自覚だった。僕は愛する少女の名を、そっと口の中で呟いてみた、「シルヴェーヌ、……僕は君を愛している、」と。僕はその幸福感から演繹して、あの少女こそが僕のこの貧困な現実を意義のある、美しいものにしてくれるmuseなのだと考えた。彼女の日差しを受けて輝く髪、白く透き通った肌、夢見るような菫色の瞳……。最早居ても立っても居られなくなり、僕は河の方へ駆け出した。しかし、不意とその時、彼女の仄暗い印象が僕の内部を垂直に降下した。何故忘れていたのだろう、僕は幸福に眼が眩んでいたのだろうか?……花の無い花束を持った彼女、その後の紳士との遣り取り、その時の悲しみと諦念との交じったような瞳、「着いて来ては駄目、この橋の向こう側は危ないところだから……、」という言葉……、そこから僕は陳腐で悲劇的な想像を導き出し、それを振り切るように頭を揺すった。しかしそれを振り切ることは出来なかった。彼女は夜の職業をしているのじゃないか? その考えと今朝の美しい聖女のような彼女の印象とが不思議に混ざり合った。しかしどうしても僕は彼女を美しいものとして見ることをしかし得なかった。僕は遂に橋の前へまで至るとその橋を越えた。そうしてその区画を観察して歩いた。僕は客引きの女達とすれ違っては、そこに彼女の姿を見出さないのを安堵した。しかし、この街の全てを見なければ僕には安心することなど出来ないのだ。僕はそのまま日の出まで歩き続け、疲れ果てて下宿へ戻ると少しだけ仮眠を取り、彼女との約束の場所へ向かった。
 ――あなた大丈夫? と僕の顔を見るやシルヴェーヌは言い、僕の隣に腰掛けた。ひどい隈が出来ているし、顔色もお悪いわ。
 ――ああ、大丈夫です、と言って僕は彼女の手を取った。
 シルヴェーヌは僕にその手を委ね、そうして僕の肩へその頭を乗せた。僕は彼女の肩を抱いて僕の方へ押し付けるようにした。
 ――少し痛いわ、と彼女は小声で言った。
 彼女は、僕が一向に何も言わないので不審そうな眼差しでこちらを覗き込んだ。尚も僕が口を開きそうも無いのを見て、
 ――どうかなさったの? とても悲しそうね、と言った。気分が優れないの? 
 僕はシルヴェーヌの眼を見詰めて、
 ――君はとても美しい……、と言った。
 彼女は頬を赧らめて、そうしていやいやをするように顔を背けた。それは生娘のような、清純な動作だった。
 ――僕は、君を愛しているよ、と言った。僕は苦しい。
 ――私もあなたが好きよ、でも……、どうしてあなたは苦しいの? どうしてあなたはいつも悲しそうなの?
 ――君があの橋を渡ったのは何故? 初めて会った日に君と話していたあの男は一体何者なんだ? 
 僕がそう問い質すように訊くと、彼女は眼を伏せた。長い睫毛がその頬に暗い影を落とした。彼女は暫く逡巡し、大きく深呼吸をした後に話し始めた。
 ――私は娼婦なの……。それで、あの時の男の人は私へ求婚している人よ。私にはあの人と結婚するつもりはないのだけど、でも時間の問題かも知れないわ。
 ――そんなのは駄目だ、と僕は叫ぶように言った。
 ――でもしょうがないことなのよ。私には養わなければならない家族がいるの。あなたはいつまでこの国にいるの?
 ――来年の夏までだよ……。それがどうかしたの?
 ――じゃあ、それまで私達恋人同士になりましょう。それくらいなら仕事をしなくてもなんとかなるわ。きっとお金を出して下さる方がいるの。
 ――そんな……、そんな悲しいことを。
 僕の言葉を遮るように、彼女は人差し指を僕の唇に当てた。
 ――どうしようもないことなのよ。だってあなたは国に帰って立派な人になるのだし、私には家族がいるの。どうしようもないことなのよ。
 ――だからって、君一人が犠牲になるだなんて間違っている、と僕は言った。
 ――どうしようもないことなのよ、と彼女は繰り返して言った。私の提案を受け容れて。私にはそうするしかないのよ。
 最初から、その終りが見えている愛だなんて……、こんなに悲劇的な愛があるだろうか、と僕は考えた。彼女を所有することは出来るのに、その幸福を他の男の財産に負うだなんてそんなに惨めなことが他にあるだろうか……。しかし、彼女への思慕を断ち切ることなどとても出来やしない。
 ――僕はそれでも君を愛さずにはいられないよ……、と僕は言った。
 それは僕の真実の言葉であり、且つ彼女の提案を飲む卑怯な言葉でもあった……。
 僕は彼女と一緒にいる時は強いてその作り物の幸福を甘受しようと試み、彼女が傍にいない時は愛する女性一人さえもを救うことの出来ない己の無力を、運命を呪った。僕には絶望しか見えなかった。僕はその運命の悪意を憎んだ。が、結局はそれに身を委ねることをしか、僕に出来ることなどありやしなかった。
 ある夏の日、僕とシルヴェーヌとは二人で音楽会へ出掛けた。その日のプログラムはショパンピアノ曲だった。僕らはその始めから終わりまでずっと手を握り合っていた。曲と曲との合間には人目を気にせず唇を重ね合った。僕は世界中の人々に、シルヴェーヌが僕のものであることを見せ付けてやりたかった……。
 音楽会の最後を飾る曲の演奏が始まった。ホ長調の穏やかな甘く美しい第一主題が優しく響く、愛する喜び、シルヴェーヌとの出会い、彼女を靭く愛しているという自覚、彼女の身体の柔らかな温もり、その幸福の眩暈の高潮と持続……。俄に沈み込んだ後の軽快な調べ、彼女と歩いたあの河沿いの道、彼女と僕との足音、穏やかな日差し、不意と眼が合って交わされる口付け、彼女と別れる際の微かな悲しみ……。不協和音のような破壊的な和音の連続、激情の調べ、駆け上るような不吉な音の連なり、メランコリーな美しい旋律……、自己への苛立ち、その中に潜む狂おしいほどの彼女への愛、愛と嫉妬との無限の亢まり、絶望的な愛、不可能の愛、カタストロフの予感……、そうして再び序盤と同じ穏やかな甘い第一主題へ……。全ての思い出とそれに付随する感情とが僕の内部を満たした。それらはとても美しいものに思えた。しかしそれは追憶の美しさだ、と僕は考えた。全ての苦々しい過去はその記憶の結晶作用によって癒され亢められ、甘く美しいものとなる。しかし、しかしそれは……、
 その曲の終りを僕らは涙に濡れながら迎えた。僕らはホールの売店でショパンエチュード第三番のオルゴールを買って贈り合った。
 二人は先程の曲の印象を留めながら無言で帰り道を歩んだ。僕らは確実に幸福の中にあった。そうしてそのまま僕のアパルトマンへ着くと彼女は僕のベッドに腰掛けて、僕はそこから少し離れた勉強机の前に置かれた椅子を占めた。シルヴェーヌはハンドバッグから先程のオルゴールを取り出すとその蓋を開いた。その音はとても寂しく孤独の部屋に響いた。僕と彼女との間には常にカタストロフの深淵が横たわっており、その絶望的な断絶によって僕らは常に孤独だったのだ。しかし、それこそが人間の姿なのじゃないか、と僕は考えた。彼女の傍へ行ってオルゴールを閉じると、僕は彼女の唇に自らのそれを重ねた。彼女は僕に凭れ掛かり、その身を横たえた。それを見て僕は彼女から離れた。
 ――あなたは私を愛していないの? と彼女が訊いた。
 ――僕は君を愛しているよ、と答えた。誓って、僕ほどに君を愛することの出来る人なんかいやしないさ。
 ――じゃあどうして……、
 河野晶は自分の回想がそこまで差し掛かると強いてその追憶を打ち切って、薄明の差す中を自らの下宿へ向かって歩き始めた。彼の内部には、「彼女はもういないのだ、彼女はもういないのだ、彼女はもう……、」という虚ろな囁きが次第に増幅しながら響き続ける……。

 【夏】 


 前期も終わりに近付いた或る日、とある教授の主催する小規模な宴会が催された。そこにはその教授の受け持っている幾つかの授業の受講者が十数人集まっていて、その中には呉田遼平と立花岬との姿もあった。呉田遼平はそのF…教授を尊敬しており、その話を嘗てから聞いていた立花岬もまたその授業を履修していたから。
 その会場へ不意と一人の青年が滑り込んだ。それは河野晶という呉田遼平と同窓の学生で、ほんの一週間前に一年の留学を終えて帰国したところだった。彼はきょろきょろと辺りを窺って、呉田遼平達の座っている四人がけのテーブルに一つの空席を見付けると真っ直ぐにそこへ行き、
 ――やあ、と呉田遼平に声を掛けた。
 ――河野か、驚いた。帰国したんだな。しかし珍しいね。君がこんなところへ来るだなんて。
 河野晶は多くの時間を独りで過ごしていて、学部の仲間からは変わり者だと思われていた。しかし、それは決して彼を揶揄するようなものでは無かった。彼の憂愁を帯びた眼差し、その瞑想的な雰囲気は一種の尊敬さえも集めていたし、そんな彼を秘かに慕う女学生の数は少なくなかった。
 ――僕だってたまにはこういう場所へ顔を出すこともあるんだよ、と素っ気なく言った。
 そうして河野晶は呉田遼平の横の座布団を占めた。で、彼は対面に座っている上田佳子とその隣の立花岬とに向かって簡単な自己紹介をし、女性二人もそれに倣った。
 ――河野、留学の話でもしてくれよ、向こうはどうだった? と挨拶の済むのを待って呉田遼平が訊いた。
 河野晶は悲痛な表情をその顔に浮かべて俯いた。
 ――特に何もなかったよ、と言った。
 しかし尚も呉田遼平が煩く催促するので彼は渋々と喋り始めた。
 ――僕の留学は、人間は常に孤独であるという嘗てからの考えを靭めた……。人間は惨めなものだ。僕は別にジャンセニストじゃないけどね。とにかく人間は皆不幸であることを宿命付けられている。しかし神の恩寵なんかありやしない。人間はただひたすら運命の悪意のようなものに押し拉がれるか弱い存在なんだよ。それ以上でもそれ以下でもない。僕が信じるのは自らの孤独のみだ。人にはそれしか恃むところがないんだ。
 ――しかし、人生には明るい面もあるだろう? と呉田遼平が言った。
 ――君は美しいものだけを見ていればいいさ、そのお嬢さんのようなね。君の書いたものを送ってもらって読んだからそれくらい分るよ。しかし、人生は決して幸福なものじゃない、と河野晶は言い、続けて口の中で、いつかその美は奪われるだろう……、と呟いた。
 河野晶と呉田遼平とがお互いを見据えて、一種陰険な空気が場を支配した。河野晶は視線を彷徨わせ、不意に立花岬と眼が合った。
 その時、立花岬は霊感のようなものを感じた。彼女はこれまで人のそういう憂愁の眼を見たことはあったが、自分に対して向けられたことは無かった、彼女は今まで無条件に愛されるような存在だったから。不意と彼女は彼の整った顔とそれに不似合いな暗い瞳とから、アネモネの花のような不気味な印象を感じた。それは彼女をして、この人は自分を憎んでいるのじゃないかしら、とすら考させる程だった。何て恐ろしい、寂しい瞳だろう。その冷たいような、憂鬱そうな瞳の中には、私の今まで知らないものがある。……この人の内部には何か恐ろしい深淵のようなものがあるように思える。それが一体何なのか、私はとても知りたい。でも……、
 河野晶にはその少女の瞳が美しいものに思えた。花はそれが最も美しい時に摘み取られるべきだ、そうしてその役目を果たすのが僕であることに何の不都合があるだろう……? と彼は考えた。生とは常に孤独に試みられるものであり、そのエゴの充足を目指すものこそが、生の強者だろう。
 ――僕、そろそろ帰る、と河野晶は言い、
 ――そうか、今度君の帰国祝いでも開こうよ、また話そう、と呉田遼平が言った。
 その二人の会話で立花岬はその意識を現実へ戻したが、河野晶は一種の妖しい印象を彼女の胸に残すように直ぐ様その場を去った。

 

 ***

 

 立花岬は冷蔵庫へ丁寧にしまってあるケーキを確認した後エプロンを脱いで着替えを済まし、お座敷の麩を滑らせた。そこには友人である上田佳子が慎ましく座っていて、彼女を笑みながら迎えた。
 ――ごめんなさいね、招いたのに構いもしないで放ったらかしてしまって、と立花岬は詫びた。
 ――いいのよ、でも岬さんたらひどいわ、と故意に怨ずるような表情を作って上田佳子は言った。私にだって料理のお手伝いくらい出来るのよ。
 立花岬にはその調子が作り物であることは容易に見抜けたし、そのふざけたような演技は見る人を微笑ませずにはいられないような種類のものだったから、
 ――そうねえ、でも怪我でもされちゃたまらないもの、それに私は佳子さんをついつい甘やかしたくなっちゃうのよ、と笑みながら言った。
 ――お料理を運ぶくらいなら私にでも出来るわ。そろそろ準備をしましょうよ。
 そうして二人は母家と離れとを数回往復し、料理と飲み物とをテーブルの上へ綺麗に並べた。ケーキとサンドイッチとだけではあったが、立花岬が真心を込めて作ったそれらは卓上を賑やかにした。
 この日は、呉田遼平の発案による河野晶の帰国祝いが催される日だった。しかし呉田遼平にはあまり多くの資金を投じることは出来なかったからその会場を実家暮らしの立花岬に求めた。彼女は同意し、彼女の家の離れを借りて会を催すことが決まった。呉田遼平は酒を用意することとその日の料理の費用とを担当し、立花岬はケーキを焼くことになった。そうして参加者が男二人と女性一人とでは決まりの悪いような気がしたから、立花岬が女友達を適当に一人誘うことで会の計画が立ち、万事は滞り無く進んだ。
 準備を終えた二人が雑談を始めて幾らか時間の経った頃、離れの玄関の開く音が聞こえ、それに続いて呉田遼平の声が響いた。そうして麩が開かれて呉田遼平と河野晶とが入って来た。呉田遼平は我が物顔で荷物を部屋の隅に置くと、河野晶から荷物を受け取ってそれを部屋の隅へ置き、部屋の中心に据えられた少し大きめな正方形の座卓の一辺に河野晶を座らせて、自分もその右側へ腰を下ろした。呉田遼平から右回りに、河野晶、上田佳子、立花岬という具合に彼らは座を占めた。時計を見るとその針は丁度午後六時を指していた。
 ――スケジュール通りだね、と呉田遼平が言い、じゃあ始めようか、と続けた。
 その言葉を聞いて立花岬と上田佳子とが飲み物を注ぎ始めた、呉田遼平と河野晶とにはお酒を、自分たちにはジュースを。飲み物が全員に行き届いたのを認めると呉田遼平は一つ咳払いをし、
 ――それでは……、河野晶氏の凱旋帰国を祝して、と笑いながら言ってグラスを上げ、乾杯、と続けた。
 四人は乾杯をしてグラスの打つかり合う小気味良い音を響かせ、そのグラスに口をつけた。呉田遼平はすっかり上機嫌だったから頻りと戯談を言ったりしていて、それに対して上田佳子はいちいち笑い声を上げていて、しかしそれと反対に河野晶と立花岬とは沈黙しがちだった。元々二人は寡黙なタイプだったが、それはまるで河野晶の憂愁が立花岬に伝染してしまったかのようにも見えた。二人の視線はその共通の思いを確認し合うかのように時々交わるのだった。
 食事を終えると河野晶は縁側に腰掛けて煙草を吸い始めた。暫くそうして青白い煙を暗闇へ目掛けて吐き出していたが、不意に室内が騒がしくなったから振り返って室内を注視した。どうやら、三人は立花岬の写真を収めたアルバムを見て楽しんでいるようだった。
 ――岬さんは小さい頃から美しかったのねえ、と上田佳子が心から羨むように言った。
 その言葉へ同意するように呉田遼平は頷き、立花岬は恥ずかしそうに顔を赧らめた。呉田遼平に呼ばれ、河野晶は煙草を灰皿に押し付けてその火を消すと三人の方へ歩み寄った。河野晶の近付くのに従って立花岬は増々赧くなってしまい、丁度彼の座布団へ腰を下ろした瞬間にそのアルバムを閉じてしまった。
 ――そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃないですか、と呉田遼平が言った。
 立花岬は自分の行為の裏に潜む単なる恥ずかしさではない感情が露出するのを恐れて、恥ずかしさこそがその行為のたった一つの理由だと思わせようと、その言葉に応えるようにアルバムを閉じた手をどけた。しかし彼女自身でもその感情が何なのかは未だにはっきりとは分っていなかった。彼女は、河野晶の恐ろしいような瞳で一方的に自らを見られることを恐れていた。自らの秘めた部分は、彼の深淵を見詰めるような瞳によって全て暴かれてしまうのではないかしら……。でもそれは一体何だろう。
 そこへ立花夫人が、ここ数年分の、アルバムへは収め切れなかった十数枚の写真の入った封筒を持って現れた。上田佳子は我先にとそれを受け取ると、その中の写真を取り出し始めた。
 呉田遼平はそれを見て、
 ――高校の卒業式と大学の入学式との写真なんだね、と言った。
 その声に立花岬の先程アルバムを閉じた印象を追っていた河野晶は顔を上げた。そうしてその写真を虚ろに眺めながら不意とある考えが自らの内部に浮かんだのを発見した。
 しかしそれは危険な行為だ、と彼は考えた。三人の眼のある中で写真を一枚偸み取るだなんて、馬鹿げている……。
 河野晶はじっと周囲を窺ってみた。何か皆の、少なくとも呉田とあの上田とかいうお嬢さんとの注意を逸らすような方法はないものだろうか。もしそれが不可能だとしたら、そうだな、複数枚の写真を手に取った後に一枚だけ抜き取ってしまえばいい。しかし、それではその行為から彼女の反応を引き出すことは出来ないだろう。何としても邪魔者の眼を逸らさなくてはならないが……。
 その時上田佳子が花を摘んで来ると言い残して母家へ向かった。それを見て河野晶は今こそが好機だと考え、自分の鞄から画集と文庫本とを取り出してその文庫本を自分の前に置き、画集を呉田遼平に渡した。呉田遼平が熱心にそれを眺め始めたから、河野晶は覚悟を決めた。彼は正面に座っている立花岬の視線を早々と捕まえ、それを意識しながら卓子の上に無造作に散らされた写真の一葉を手に取った。そうして再度彼女を見詰め、その瞳が自分を映していることを確認した後、素早く写真を傍らの文庫本へ差し込んで立花岬へ視線を戻した。二人はそのまま暫し見詰め合った。河野晶には彼女の頬に赧味の増すのが認められた。尚も二人は見詰め合い、河野晶は彼女がその行為を呉田遼平に伝えないことを意外に思った。それと同時に立花岬もまた自分の黙認という行為に驚いた。そうして忽ち二人の関係が共犯関係という甘美なものへと変わったことをお互いに意識した。
 立花岬は、はじめその自らの黙認という行為だけに驚いていたが、直ぐにもう一つの驚くべきことを発見した。しかし、その河野晶は自分を愛しているのかもしれない、という考えはどうしても突飛なものに思えた。彼女は自分では意識していないが、その少女らしい傲慢さから多くの人が自分を愛することを幾らか当然のことに思っていた。だから、呉田遼平が自分を愛することはあり得るべきことで、それが実際そうなったことに対してはただの安心感をしか抱かなかった。しかし今回は違った。謎に包まれた憂愁の青年から、こういう仕方でアプローチを受けることは彼女にはあり得ぬべき行為に思えるのだった。そうして、本来ならば自分を愛してくれるかどうか不安な、むしろ嫌われているのではないかとさえ考えもした人物から愛されるという想像は、その意外性の分彼女に大きな歓喜を与えた。
 もし河野さんが私を愛しているのだとしたら……、と立花岬は考えた。それはとてもロマンティックなことかも知れない。あの人の憂鬱そうな瞳の中には私の識らないもの、このまま生きていたら決して知り得ないものが潜んでいるのだから。その未知への憧れは彼女にとっては最早愛への憧れと同じようなものにすら思えた。そうしてその憧憬は漸次的に増していった。しかし、不意と彼女の左隣りにいる呉田遼平のことも意識に上ってきた。でも私にはもう、呉田さんという方がある……。別に将来を誓い合ったわけじゃあないし、そもそもはっきりと愛を囁いてくださったことすらない。でも……、呉田さんが私を愛していること、そうして私に愛されていると思っていることは確実で、お父様もお母様も私は呉田さんと恋人同士だと考えていらっしゃる。いいえ、そんなことは関係ないはず。大事なのは私が……、愛しているかということ。きっと私は呉田さんを好ましく思ってはいるけど愛してはいない。じゃあ、河野さんは……? 分らない。河野さんは頭も良いし、美しい人だ、同学年の女の子や先輩が河野さんの噂をしているのを何度か聞いたことがある。いいえ、そんなことは関係ない、私は……、
 麩の開く音に立花岬は意識を現実へ戻し、上田佳子が母家から帰ってきたのを切っ掛けに呉田遼平が画集を置いて口を開いた。
 ――やっぱしムンクは凄いね。
 河野晶はそれを受けて、
 ――うん、と言った。何よりムンクの絵は影がいいね。まるで実態を持って生きているかのような影だ。それは彼が凝視し続けて倦むことのなかった生の深淵だ……。
 ――そうやって君はどうしても暗い方へ向かうんだね、と呉田遼平が茶化すように言った。
 ――そうかも知れないね、しかしそれはしょうがないことだよ。
 ――君は徒に苦悩しているだけだ。
 ――生は、それが真剣に試みられる度合いを増すのに従って、死に近づくはずだ。キェルケゴール死に至る病のようなものだよ。そしてそれを支えるのは靭い孤独のみだ。僕にはそれの他に信じられるものはない。
 河野晶が言い終えると沈黙が齎された。立花岬は河野晶のその沈鬱な瞳に潜む何かを見、そうしてそれを問い詰めようと試みた。彼女のその瞳は美しい光を湛えていた。その時、河野晶と立花岬との横顔が美しいほどの調和の中にあることを、不意と呉田遼平は意識した……。
 その日の帰り道、河野晶は呉田遼平と共に駅へ向かっていたが、途中で気紛れを装って一人になると暫く歩みを進めた。そうして不意と立ち止まってポケットから、別れ際にこっそりと立花岬に渡された紙片を取り出し、それを再度読み返すとその指示に従って駅の傍の公園を目指した。彼は煙草に火を点けたが、それを吸い終えるより先にその公園に着き、その入口に手紙の差出人の姿を認めた。立花岬は公園の中へ入ってベンチへ腰を下ろし、彼もそれに倣った。
 ――どうして、あの写真を盗ったのですか? と立花岬が単刀直入に訊ねた。
 河野晶は何か適当な理屈を繕おうと考えたが、それは不可能なことに思えたから、
――……僕はあなたという美しい人を、その幸福を呉田の手から奪ってやろうと思ったのです、と言った。
 その彼の言葉は立花岬を驚かせた。そうして次に喜びがその慎ましく優しい胸を満たした。彼女にとってそれは河野晶が自分を愛していることの証拠に思えた。この瞬間彼女は生まれて初めて愛される喜びと愛する喜びとを漠然とではあるが靭く感じたのだった。彼女は夢見るような熱い眼差しで河野晶を見詰め、その瞳は今にも涙が溢れ出しそうな様相を呈し始めた。
 ――私、いま、とても幸せです、と立花岬は絞り出すように言った。
 そうして彼女は、愛する青年の方へ近付いてその手を取った。それは衝動的な動きだった。その頬は夜の暗きの中にあっても赧く、燃えるようだった。感情が理性を超えて彼女を支配した。彼女は火照った眼差しのまま河野晶へ凭れ掛かるように抱き着いた。二人の眼が合い、彼女は河野晶の唇へ自らのそれを重ねようとした。しかし、その時彼が叫ぶように言った。
 ――駄目だ。僕があなたを愛しているのは、あなたに嘗ての恋人の影を見ているからに過ぎない。僕はあなたを愛しているが、それはあの少女の代わりに愛しているというだけだ。僕が真に愛するのはあの少女だけだ。言ってしまえば僕は彼女に口付けすると空想しながら君と……、しかし駄目だ、やっぱり駄目だ。僕にはそんなことは許せない。僕は遠くから彼女を愛するように、君を愛しているだけでいい。そうしていれば、僕の愛の観念は純粋に僕の内部に保持され続けるし、君は美しいんだ。僕から離れてくれ……。
 その拒絶はあまりにも意想外なものだったから、立花岬には途方に暮れるように立ち尽くすより他はなかった。彼女の啜り泣くような声を聞きながら、それを振り払おうと河野晶は逃げるように去って行った。